面白いことをやって、それを面白く出力することが出来れば、それが一番いい。
でも自分が面白いと思うものを他の人が面白いと思うとは限らない。という問題その1。
かといって他の人が面白がりそうなことをやっても、自分が嫌々やっていると結局面白いものが作れない。問題その2。
多分、自分が面白いと思っているもので他人を力づくに面白がらせるくらいのパワーが必要なのだろう。どうも自分にそれがあるとは思えないけども。
とりあえずしばらくはもうちょっとわがままにやってみようかな、と思う。自分が面白くないと自分が潰れそうなので。

いなくなった猫。

 突然だが、今年の8月ごろに我が家にやってきた猫はもういなくなってしまった。その理由はあえて書かないことにする。

 今まで当たり前のようにそこにいたものがいなくなってしまうのは、とてもとてもさびしくせつない。

 もう服や布団を汚されることもないし、夜中に突然お腹の上に乗られてびっくりすることもない。もう二度と。

 それはことばでは言い表せない悲しみだ。そんなことはわかってた。

 でも実際にやってくる悲しみは、想像上のものとは違う。いわば質量と体積を持った悲しみだった。

 可愛げのない雄猫だった。おっさんみたいなヤツだった。じゃれたり遊んだりすることは知らないようだった。

 それでも、餌や暖を求めてやってくる彼を見ると、守ってやらなきゃいけないと思えた。

 そして彼はもういない。その事実は、決して揺らぐことはない。

 せめて彼が、ここではないどこかで、いつまでもいつまでも、ごはんを食べたり、眠ったり、いろいろなものの匂いをかいだり、雌猫を追いかけ回したり、そんな風に自由闊達に暮らしていけることを、願いたいと思う。祈りたいと思う。

 そしていつかどこかでまた彼に出会えたら、ありがとう、と言いたい。その日まで、少しでもまっとうに生きていきたい。

猫、アンド猫

 野良猫だった猫はすっかり我が家に居着き、小さな窓から自由に出入りするようになった。でも大抵は家にいる。

 首元の傷は当初の3分の1ほどまで小さくなった。きっともうすぐ治るだろう。

 しかし最近は鼻の調子が悪いらしく、いつも鼻水を出している。

 しかも厄介なことにところかまわず鼻水を飛ばすので、家の中が汚れまくり。毛布、ガビガビ。しかしそれでも憎めないのが猫。おそろしいですね。ええ。

 鼻が利かないせいか食欲もあまりないようで、少し痩せてしまった。今は病院でもらった薬をエサに混ぜている。

 ものすごく人に慣れた猫なので、元々は飼い猫だったのが、病気がちになったせいで捨てられてしまったんだろうか。

 でも猫は何も言わず、今日も寝ている僕の体の上に乗ってくる。そしてまたクシャミをする。

 傷つきやすいものは大切に扱わなくちゃいけない。そしてそれは時にものすごく難しい。

 自分にできることは限られている。そもそも何かをする理由も、いつまでもあいまいなままだ。

 それでもできることといえば、前に進むこと。後ろに下がること。脇道を通ること。立ち止まること。そんなようなシンプルなことしかないのかもしれない。猫のことを思うと、そんな風に考えてしまう。

引き続き猫。

 相変わらず猫の話。

 すっかり我が家に居着いた猫。しかし出かけるときは出かける。半家猫状態。大抵夜には帰ってくる。明け方に出ていくことが多い。

 そして今。ベッドで仰向けに寝た僕の胸の上に乗っている。すっかり人のことをベッドだと見なしている。にくいやつである。

 しかしどうも体調が万全という感じではない。目やにや鼻水が出る。たまに鼻血も出す。胸の上からくしゃみ攻撃してくるので大変。

 そんな体調だというのに雨の中でも構わず出かけてしまう。これでは治るものも治らない。まったく。

 首元の傷口も少しずつ治ってはいるがまだまだ完治には遠そう。早く元気になって欲しい。

 エサも選り好みする。肉や魚なら確実に食べるが、フレーク状のいわゆるカリカリは食べたり食べなかったり。安い缶詰には一切口をつけない。とんだ贅沢ヤローである。

 わがままで気まぐれ。でも可愛いから許してしまう。そしてモフモフ。そんな魔性。それが猫。何千年も昔からペットとして生き残れた理由がよくわかる。

 また僕の上でくしゃみをした。鼻水が飛んでくる。でも許す。なぜなら猫だから。そんな夜が更けていく。


 

 2ヶ月ほど前、庭に野良猫がやってきたのを家族が見つけた。

 ケガか病気かわからないが、首元の毛皮がはがれたようになっていて、とても痛々しい。

 エサや水をあげると、ほぼ毎日庭にやってくるようになった。人に慣れているので元々は飼い猫だったのかもしれない。病院にも連れて行き、塗り薬をもらった。

 日々触れ合ううちに、どんどん僕や家族に慣れてきた。頭をこすりつけてきたり、膝の上に乗ってくるようになった。

 やがて家に入れるようになった。最初は戸惑っていたが、一通り家の中を見て回ると危険がないことがわかったようで、すぐにリラックスし始めた。

 そして今では同じベットで寝るようになった。っていうか寝てる。これを書いてる今現在、僕のふくらはぎに前足を置いて座り込んで寝息を立てている。

 
 元々猫好きだったが、実際の猫と触れ合ったことはあまり無かった。そして今。こうして現実の猫と触れ合っている。

 夢のようである。ふわふわしている。あったかい。甘えてくる。エサや水をせがむ。撫でるとお腹を見せる。肉球がある。なんだか香ばしいにおいがする。

 どうやらそこそこ歳をとっているらしく、あまり動き回らないのが予想と違っていたが、そんなのはささいなことだ。そこに猫がいるだけで十分以上だ。

 外に出たがる時もある。1日帰ってこないこともある。そんな時は寂しい。真っ当に寂しい。

 果たしてこれからもこの家にいてくれるのか。それとも来た時のようにふらっと何処かへ行ってしまうのか。それは猫次第だろう。

 傷の方は少しずつ治ってきているようだ。完治したら一度本気でじゃれあってみたいものである。それも猫の気分次第だろうけども。
 

普通のメンタル

 普通のメンタルでいる、というのが最近の目標になっている。

 平常心、ということばがあるが、その言葉自体がすでに平常のことばではない。

 普通。普段通り。いや、もっとその先にある普通。

 例えば居間に寝っ転がってテレビを見ているような、そんな普通。なにひとつ心に背負っていないような状態。

 昔運動部にいたせいか、どうしても頑張るとか努力するとか集中するとか熱中するとか、そういうことに重きを置きがちになる。精神的な傾向として。

 そういうのを、行いとして行うのは、必ずしも悪いことではないと思う。

 でもメンタルの問題として、心の持ち方として、そういうのは別に必要ないんじゃないか。むしろ自分を追い込んでしまうだけなんじゃないか。積極的に無くすべきなんじゃないか。

 例えば本を読む時。どうも自分は、キチンと頭に入れようとか、集中しようとか、小説の場合は頑張って感情移入しようとか、そういう気負いを持ちがちだったような気がする。

 そしてそういう気負いのせいで、逆に本を読むことが億劫になってしまっていた面もあると思う。

 同じようなことは、文章を書くことについても言える。

 ちゃんとしよう、上手くやろう、失敗しないように気をつけよう。そんな気持ちがどこかにあった。

 もしかすると、自分の人生そのものについても同じようなことが言えるのかもしれない。

 不必要な気負いによって、上手く動けなくなっていたのかもしれない。

 もっといろんなことを、冷蔵庫に入ったお茶を飲むくらいの気軽さでやってみれば、ずっと楽になるのかもしれない。そうだったらいいのに。


 と、そんな考えでもって、生活における色々なことを「普通のメンタルでやろう」と心がけながらやるようにしている。

 もちろんうまくいかないこともある。でも前よりは少しだけ生きるのが楽になったような気もする。ただ単に無気力になっただけのような気もするけども。

 

眠り

 心にわだかまっていることがあると、眠りが浅くなる。当然の帰結だ。

 そして人生において、大抵の問題は、ハッキリとした解決を見ることなく、あいまいなまま置き去りにされる。そのまま人生の時間は過ぎていく。

 例えばこのブログのアイコンにしている写真は7年ほど前に撮ったもので、とてもやりきれない気分で撮ったものなのだが、そのときのやりきれない気分の大半は今も引きずったままだ。

 あらゆる苦しみを、あらゆる過去と未来を、あらゆる罪を、あらゆる「しでかし」を、全て忘れることができれば、ぐっすりと眠ることができるのかもしれないし、あるいは全て忘れなくても、いったん脇に置いてぐっすり眠ることが、処世術、というものなのかもしれない。

 そのとき男は酒を飲むのでしょう、というような歌もあった気がする。そのようにしたとしても、誰も責める人はいないだろう。でも少なくとも今は、そんな気分にはなれそうもない。