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 久しぶりに絵を描きたくなってペンタブレットを引っ張り出してきた。

 何のプレッシャーもなく描きたいことを描けるのが絵のいいところだ。僕にとっては。

 抽象画っぽくすることで心得の無さをごまかすという手法。

 手を動かして何かを作る、という点では文章を書くことと似ているが、使うチャンネルというか、使う脳の部位が違うので、いい刺激になる感じがする。

 デジタルなら紙が要らないのもいい。何の意味もないものも描ける。その分緊張感も無いけど。

 引越しをした。年末だというのに結構大変だった。

 前の家から歩いて20分のところに親が家を建てたので、一緒に移り住むことにした。

 新しい家に移る家族。元の家に残る家族。それぞれの思惑があって、別に表立って対立があったわけじゃないのだけれど、なにもかもがスムーズにいったわけじゃなく、精神的な疲労感があるし、この先どうなるかわからない不安もある。

 でも少なくとも環境は良くなったし、やりたいことができるようになったと思う。もっとちゃんとしなければ。できるかどうかはわからないけど。

 しかし家を行き来して荷物を運んだり、家具を配置したりと肉体的にもけっこうしんどかったので、正月くらいはゆっくりしたい。

 移り住んだのはいいけれど、まだ慣れてないので自分の家感が無く、くつろげていないのでなかなか体が休まらない。今もとても眠い。

 今年はいいことがあるといい。全ての人と、全ての急須と、全ての分度器と、全てのカワセミと、その他全てのものに。

 どうもこの時期は、ひとりでじっくりといろいろなことを考えたくなる。

 いろいろあって、前より少し生活環境が良くなりそう。これでもっと頑張れたらいいんだけど。

 もっと人と関わったほうがいいと思うんだけど、そういうことがもうずっと上手くいっていない。家族以外との関わりがあまりない。

 傷つけたり傷つけられたりするのが怖くて人と関わるのを避けてしまう。それは優しさじゃなくて臆病なだけなんだろう、と、どこかで誰かが言いそうなことを考えてしまう。

 自分を卑下し過ぎるのもよくない。誰もが弱さを抱えているのだから、自分のペースで少しずつでも進んでいけばいい。なんて。

 求めるものが全て得られることなんてあり得ない。持っているものを使うことを考えた方がいい。

 どうも抽象的なことばかり考えてしまうな。

 ブログを書くということ、文章を書くということはどんな意味を持っているのだろう。

 場合による、としか言いようがない。

 僕はこの言葉を誰に届けようとしているのだろう。宛先の無い手紙なのだろうか。

 自分は何者なのだろう。観念的なことだけでは、それは伝わらない。

 どうやって生きていけばいいだろう。お金で買えないものもある。でもお金は生きるのに必要だ。

 時々不安になる。自分は、あるいは世界は、これで大丈夫なんだろうかと。

 確かなことはなにもない。だから積み重ねていかなければならない。目に見えるものや、見えないものを。

 だから運動をしたりする。筋をほぐしたり、心肺に負荷をかけたりする。人間は肉体であり、精神もまた肉体である、と見ることもできる。唯物論。

 こうして言葉を並べていくと、論点が少しずつずれていく。当初の問題は少しずつ遠ざかる。解決するわけじゃないけど。そういうやり方を、僕は読書で学んだんだのかもしれない。

 ずっと同じところでぐるぐると回り続けるのはどんなに苦しいだろう。僕はそれが愚かなことだとは到底思えない。そんな苦しみこそ救われるべきなんじゃないのか。

 大事なものが欲しいのか、それとも欲しいから大事なのか。

 言葉が、思考が縛られるのが、なによりも怖い。でもあらゆるものから自由にものを考えることなんて誰にもできない。

 誰かとわかりあいたい。でも自分の弱いところを知られるのは嫌だし、そこを突かれるのはとても辛い。

 本当は一生懸命生きたい。でもなにに一生懸命になればいいのかわからない。多分ほとんどの人がそうなんだろう。

 誰かが楽しそうに話すのをずっと聞いていたい。楽しそうじゃなくてもいい。そこにほんのわずかでも救いがあれば。たとえ偽物の救いであっても。

 誰にも知られず地道にこつこつとやっていく今のやり方は、どうやら自分に向いている。でもだからと言ってひとりでやるのが寂しくないわけじゃない。

 自分のやっていることは刹那的過ぎるんじゃないかと常々思うんだけど、じっくり時間をかけてなにかを蓄積していく余裕も無い。

 お金さえあればいいわけじゃないし、そのお金だって全然多くない。

 技術、というかある種のパターンが身についてきたのは間違いないのだけれど、果たしてこれが何かの役に立つのだろうか。

 ほとんどの人は僕がやっていることを認めてくれないだろうし、だからって自分で自分を認めることもできていない。だから辛い。そこが渡世人のつれぇところよ、と寅さんが言っていたみたいに。

 自分自身を売り込むようなやり方ができればもっと上手くいくのかもしれないけれど、そういうのにはとことん向いていない。隅っこで自分の好きなことをやっている方が好きなんだろう。

 自分は家族の中でずっとなにかを我慢してきたような気がする。そういうことがなにかに影響しているのだろうか。今度そういう本を探してみようか。

 風邪を引いて寝込んでいた。いろんなことを考えた。

 生きているうちに、やりたいことをやっておかなきゃな、なんてことも考えた。もちろん治ったらすぐに忘れてしまうのだろうけど。

 寝込んでいても料理を作ってくれる家族がいるのだから、やっぱり僕は恵まれている。

 だからもっとちゃんとしなくては。でも今のやり方でいいんだろうか。普通じゃないやり方で。絵空事みたいなやり方で。

 寂しいけど、誰かと関わる勇気も無い。そういうところをぐるぐると回り続けている。もうそういうのはいいんじゃないか。でも降り方もわかんないし。

 誰もが自分と同じくらい恵まれてるわけじゃない。そういうところから考えていかなきゃいけない気がする。

 いろいろなことを考える。時間がかかる。オレってめんどくさいヤツ。

 一緒にいると、自分が自分らしくいられる気がする、と言った。だから大切なんだ、と。もちろんそれは変わってない。

 それでもいいのかな。

 固い岩みたいになった心が元に戻るのに、少し時間がかかると思う。少しずつ戻していきたいと思う。

 それでもいいかな。それとも、今すぐじゃなきゃダメかな

 強制はしたくない。好きなようにしてもらって構わない。

 あまりたくさんのことを言い過ぎると、美辞麗句になってしまう。でもなにも言わないと伝わらない。

 少しずつでもいいかな。

 起きてからしばらくぐったりしていたら徐々に元気が出てきたので、午後から作業。休むのは大事だ。

 忘れられていないとしたら、思ってくれているとしたら、それはとてもうれしいことだ。

 忘れてないし、忘れたくないと思っている。

 というのはキレイごとかもしれないけれど、本心でもある。

 実際の自分はもっと適当に生きている。しょうもないことをしてる。

 仲良くしたいな。でも仲良くしていいんだろうか。怖いんだな。失敗してしまうのが。ずっとそうだった。

 やってみれば案外うまくいくんだろうか。

 僕がしょうもないせいで、また迷惑かけてしまうんじゃないか。今もかけてるんじゃないか。

 やっぱり言葉はシンプルな方がいいな。

 僕の傷はいつか治る。でも君はひとりしかいない。

 なんて、またキレイごとに走っている。ちょうどいいところが見つからない。

 僕はまだブログを書いてるけど、そんなやつでよかったら。

 とか、それくらいがちょうどいいのかもしれない。