やはり長時間歩いた日は体調がいい。というかそもそもが運動不足すぎるのだろう。しかし歩きすぎると足腰にダメージが蓄積するというジレンマ。

 普段書いてる日記に体調についても書くようになった。その方が客観的に自分を観察できる気がして。


 全ての言葉は文脈に依存している。だから絶対確実に言葉を伝えることは原理的に不可能だ。そういうことからひとつずつ確認していかなければならない。そんな気がする。なんとなく。

 とても孤独になったような気がするし、もともと孤独だったような気もする。本当のところはよくわからない。

 どっちにしたって、それはそれとして、なんとかやっていかなければならないのが人生の辛いところだ。

 そのためには、やれるだけのことはやっておかなければならないのだろう。人事を尽くして天命を待つ。則天去私。そんな言葉もある。今僕は、異常に漠然としたことを言っている。

 あらゆる人が健やかであればいいと思う。というような物言いはもしかすると無責任ですらあるのかもしれない。だからと言って他に言うべきことがあるようにも思えない。

 何かのことを大切に思う。その思いは、偽物ですらなく、何かを覆い隠すためのカバーシートのようなものに過ぎないのかもしれない。

 正当性などどこにもない。黒でも白でもない。そうだとしたら、全て委ねるしかないのかもしれない。しかしそれすら単なる責任回避なのかもしれない。

 そんな何もかもグレーみたいなところでも、やはりなんとかやっていかなければならない。人生は辛い。

 長時間歩く。昔聴いたお笑い芸人のラジオを聴く。それで少し楽になる。同じことを以前からやっているが、効く時と効かない時があるのはなぜだろう。

 辛いことは、言葉にした方が楽になる。でも言葉にできるようになるまでには、しかるべき時間が必要だ。人によっては墓まで持っていくこともあるだろう。

 不本意な形で家族と別に住むことになり寂しい。友人と疎遠になってしまって寂しい。

 そんな、言葉にすれば簡単なことを、言葉にするまでにずいぶん時間がかかってしまった。


 寂しいんだったら寂しくなくなるように行動すればいいじゃないか、と思う。でもそれって、結局自分のエゴなんじゃないか、とも思う。っていうかきっとエゴなんだろう。

 ということを書くこと自体もエゴであるに違いない。でも言葉は伝えなければ伝わらない。そのことがエゴに対する免罪符になるかどうかはわからないけれど。

ルービックキューブ

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 セリアでルービックキューブを買った。100円のわりに質がいい。

 とりあえず、1面を自力で揃えられるようにはなった。そこから適当にぐるぐる回していたら、一度だけ2面が揃ったこともあった。しかしそれっきりである。

 ネットで調べれば、誰でも6面揃えられる方法が見つかるらしい。でもできれば自力で6面揃えられるようになりたい。

 一説によると、自力で6面揃えられればIQ130相当の知能指数を有していることになるらしい。

 果たして僕が生きている間に揃えられるようになるだろうか。かなり怪しい。

 人生には、答えがわからない問題がたくさんある。むしろ生きている間に答えが出ないことの方が多いのだろう。

 あのときどうすればよかったのか。わからないままで人は生きている。それがいいことなのかどうかはわからないが、それしかないのだとしたら、受け入れていくしかないのだろう。

 考えてもしょうがないことは、考えてもしょうがない。でも考えなければならないことについては、考えなければならない。それを見極めるためにはどうしたらいいのだろう。なんてことをぐるぐると考える。

スケッチブック

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 スケッチブックを買った。100円均一で。

 安物だけあって、インクが滲むし、表紙がぺにゃぺにゃなので書きづらい。

 後から調べたら、一般的なスケッチブックでも倍ちょっと程度の値段で買えるらしい。ケチった結果がコレである。

 絵を描くつもりで買ったのに、気がついたら文章を書いてしまう。だったらノートでよかったじゃん。

 やっぱり絵を描くならデジタルのほうがものぐさな自分には向いている。画材も必要無いし。

 にしてももうちょっといいペンタブレットが欲しい。今のやつは解像度が低いので、ペンを静止させているつもりでも震えてしまう。おかげで線がブレブレ。まぁ落書き程度だからそれでもいいっちゃいいんだけどね。

選択肢

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 人生にはたくさんの選択肢がある。どれが正しくてどれが間違っているのかは誰にもわからないし、後からどれが正しかったかを確認することもできない。

 じゃあ選択肢を選ぶことには何の意味もないのか。そんなことはないと思う。

 人は与えられた選択肢の中から、自分が正しいと思うものを選ぶことができる。

 もしその選択が、どこからどう見ても間違いだった、と感じたならば、次からは同じ間違いをしないように気をつけることもできる。

 そうやって、自分にとっての「正しさ」を更新していくことなら、誰にでもできるだろう。

 毎日正しさを更新していったからといって、最終的に絶対間違いを犯さないようになれるわけじゃない。いつまで経っても間違いばかり犯している自分にうんざりするかもしれない。

 僕が思うのは、何もない人生よりも、正しいことをしようと思い続けて生きる人生のほうが、生きやすいんじゃないか、ということだけだ。

 なるべく自分が正しいと思うことをしよう、と思うだけで、明日も生きていけそうな、そんな気がするのだ。

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 星。スター。ぶっちゃけて言うと、眠くて複雑なものを書くのがメンドーだった。しかしこんな簡単な図形でもキレイに書くのは難しく、だいぶ歪んでいる。

 星について書くことがなにかあっただろうか。


 中学生の頃、親に本を買ってやると言われた。特に欲しいのが無かったので「星新一なんかどうだ」と言われるがままに買ってもらって読んだ。新潮文庫の「ノックの音が」。全ての短編が「ノックの音がした」の一文から始まる本。面白かった。

 それから高校くらいまで、星新一の新潮文庫を8割ほど買い集めて読んだ。しかし全て買い集めるには至らなかった。本屋に行ってもどれを持っていてどれを持っていないかがわからないし、メモするのも面倒だし、そもそも実際に立ち読みしても読んだか読んでないかわからないものを読むことにどれほどの意味があるのかという疑問を抱くようになってしまった。

 そんな星新一が、僕が読書を始めるキッカケだった、と言うことができれば話はキレイに収まるのかもしれないが、事実はそうではない。僕が能動的に読書をするようになったのは大学に入ってからだ。

 ゆえに僕にとっての星新一は、「子どもの頃に読んでいた本」というポジションに収まっている。良くも悪くも。そういう人は結構多いんじゃないかと思う。

 だからと言って別に下に見ているとかそういうわけじゃないんだけど、一時的に何かに対する熱が高まって、その後平熱に戻ると、なんとなくそれに対して居心地が悪い感じになるのは僕だけだろうか。


 他に星について思い浮かぶことといえば、断片的なことばかりである。

 最後にプラネタリウムに行ったのはいつだっただろうか。Twitterの星がハートに変わったのはなぜなのか。スーパーマリオワールドのスターロードにはなんとも言えないときめきを感じた。涙がキラリ☆。

 今現在自分やみんなが生活しているこの地球も定義上は星なわけであるが、星に住んでいるという実感が無い。やはり星は空で輝いているものというイメージが強い。

ディスプレイ

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 パソコンのディスプレイを買い換えた。やっとフルHDになった。

 デスクトップパソコンに繋ぐために買ったのだけれど、MacBook Airを繋いでお絵かきしてみた。

 画面が大きい方がやりやすいかと思ったけれど、そうでもなかった。手と画面の同期が上手く行かない。そもそもペンタブレットが小さいのだからあまり意味が無い。

 出来上がった絵も、どう見てもフレームが太すぎる。でも面倒だからこのまま投稿しよう。



 最近はちょっと神経が張り詰めている感じがして調子が良くない。体や心は平気なんだけど、集中力を使いすぎている、というか。

 うっかり何かに集中すると休憩を忘れてしまう質なので、意識して気をつけないといけない。続けるためには。