少し何かを考えたいときは、こっちのブログを書き始めることになる。

 自分の頭で考えるということを怠りがちになる。そんなことしても、くたびれるわりに、上手くいくわけでもないから。むしろ上手くいかなくなったりするから。

 頭で考えると、体の動きが疎かになることは避けられない。人間のキャパシティは限られているから。

 でも頭で考えることは無駄じゃない。

 体はワンパターンだ。与えられた刺激に、特定の反応を返すだけだ。

 でも頭は違う。頭は言葉を使って考えることが出来る。そして、言葉は、自由に組み替えることが出来る。現実にない言葉を生み出すことさえ出来る。

 だから言葉は、行き詰まったときの突破口になりうる。「ハマり」から抜け出すことが出来る。場合によっては。


 人生には、上手く行かないことがある。どんな人間でも、常に成功し続けられるわけではない。まして自分のような凡人が、だ。

 問題は、上手く行かないときの負の気持ちをどこに持っていけばいいのか、ということだ。それがわからない。それが難しい。

 あらゆることをポジティブに、好機と捉えられるようになればいいのか。そんな風にはなれそうもない。なりたくもない。

 違うアプローチを試したり、別の道を探ったりすればいいのかもしれない。でもそんな風にして24時間前進し続けていたら、(大げさに言えば)ぶっ倒れて死んでしまうのではないかという恐怖が少しある。頑張りのちょうどいい量がわからない。

 頑張って、我慢するだけで、全部上手くいくなら簡単だ。でも、それだけだとどこかで壁にぶつかる。乗り越える方法を見つけなきゃいけない。いつ見つかるかわからない。辛い。

 それでも考えて生きていくしか無い。自分の面倒を見られるのは自分しかいない。

 大切なものを犠牲にして、欲しいものを得たとして、それは本当に幸せだと言えるのか。欲しいものを得ることイコール幸せなのか。

 間違ったやり方で、欲しいものを得てしまったら、ずっと後悔することになるかもしれない。

 たとえ欲しいものを得たとしても、自尊心やプライド捨ててしまったら、自分が自分であることをやめてしまったら、意味が無くなってしまうかもしれない。

 正しくありたいわけじゃない。自分に正直とかそういうことを言いたいのでもない。ただ、本当にいいと思えることをしたい。

 正しいと思って間違ったことをするのと、間違っているとわかって間違ったことをするのでは、意味が違う。

 もちろんそんなような気持ちをいつも持ち続けられてるわけじゃないけど。

 やはり長時間歩いた日は体調がいい。というかそもそもが運動不足すぎるのだろう。しかし歩きすぎると足腰にダメージが蓄積するというジレンマ。

 普段書いてる日記に体調についても書くようになった。その方が客観的に自分を観察できる気がして。


 全ての言葉は文脈に依存している。だから絶対確実に言葉を伝えることは原理的に不可能だ。そういうことからひとつずつ確認していかなければならない。そんな気がする。なんとなく。

 とても孤独になったような気がするし、もともと孤独だったような気もする。本当のところはよくわからない。

 どっちにしたって、それはそれとして、なんとかやっていかなければならないのが人生の辛いところだ。

 そのためには、やれるだけのことはやっておかなければならないのだろう。人事を尽くして天命を待つ。則天去私。そんな言葉もある。今僕は、異常に漠然としたことを言っている。

 あらゆる人が健やかであればいいと思う。というような物言いはもしかすると無責任ですらあるのかもしれない。だからと言って他に言うべきことがあるようにも思えない。

 何かのことを大切に思う。その思いは、偽物ですらなく、何かを覆い隠すためのカバーシートのようなものに過ぎないのかもしれない。

 正当性などどこにもない。黒でも白でもない。そうだとしたら、全て委ねるしかないのかもしれない。しかしそれすら単なる責任回避なのかもしれない。

 そんな何もかもグレーみたいなところでも、やはりなんとかやっていかなければならない。人生は辛い。

 長時間歩く。昔聴いたお笑い芸人のラジオを聴く。それで少し楽になる。同じことを以前からやっているが、効く時と効かない時があるのはなぜだろう。

 辛いことは、言葉にした方が楽になる。でも言葉にできるようになるまでには、しかるべき時間が必要だ。人によっては墓まで持っていくこともあるだろう。

 不本意な形で家族と別に住むことになり寂しい。友人と疎遠になってしまって寂しい。

 そんな、言葉にすれば簡単なことを、言葉にするまでにずいぶん時間がかかってしまった。


 寂しいんだったら寂しくなくなるように行動すればいいじゃないか、と思う。でもそれって、結局自分のエゴなんじゃないか、とも思う。っていうかきっとエゴなんだろう。

 ということを書くこと自体もエゴであるに違いない。でも言葉は伝えなければ伝わらない。そのことがエゴに対する免罪符になるかどうかはわからないけれど。

ルービックキューブ

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 セリアでルービックキューブを買った。100円のわりに質がいい。

 とりあえず、1面を自力で揃えられるようにはなった。そこから適当にぐるぐる回していたら、一度だけ2面が揃ったこともあった。しかしそれっきりである。

 ネットで調べれば、誰でも6面揃えられる方法が見つかるらしい。でもできれば自力で6面揃えられるようになりたい。

 一説によると、自力で6面揃えられればIQ130相当の知能指数を有していることになるらしい。

 果たして僕が生きている間に揃えられるようになるだろうか。かなり怪しい。

 人生には、答えがわからない問題がたくさんある。むしろ生きている間に答えが出ないことの方が多いのだろう。

 あのときどうすればよかったのか。わからないままで人は生きている。それがいいことなのかどうかはわからないが、それしかないのだとしたら、受け入れていくしかないのだろう。

 考えてもしょうがないことは、考えてもしょうがない。でも考えなければならないことについては、考えなければならない。それを見極めるためにはどうしたらいいのだろう。なんてことをぐるぐると考える。

スケッチブック

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 スケッチブックを買った。100円均一で。

 安物だけあって、インクが滲むし、表紙がぺにゃぺにゃなので書きづらい。

 後から調べたら、一般的なスケッチブックでも倍ちょっと程度の値段で買えるらしい。ケチった結果がコレである。

 絵を描くつもりで買ったのに、気がついたら文章を書いてしまう。だったらノートでよかったじゃん。

 やっぱり絵を描くならデジタルのほうがものぐさな自分には向いている。画材も必要無いし。

 にしてももうちょっといいペンタブレットが欲しい。今のやつは解像度が低いので、ペンを静止させているつもりでも震えてしまう。おかげで線がブレブレ。まぁ落書き程度だからそれでもいいっちゃいいんだけどね。

選択肢

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 人生にはたくさんの選択肢がある。どれが正しくてどれが間違っているのかは誰にもわからないし、後からどれが正しかったかを確認することもできない。

 じゃあ選択肢を選ぶことには何の意味もないのか。そんなことはないと思う。

 人は与えられた選択肢の中から、自分が正しいと思うものを選ぶことができる。

 もしその選択が、どこからどう見ても間違いだった、と感じたならば、次からは同じ間違いをしないように気をつけることもできる。

 そうやって、自分にとっての「正しさ」を更新していくことなら、誰にでもできるだろう。

 毎日正しさを更新していったからといって、最終的に絶対間違いを犯さないようになれるわけじゃない。いつまで経っても間違いばかり犯している自分にうんざりするかもしれない。

 僕が思うのは、何もない人生よりも、正しいことをしようと思い続けて生きる人生のほうが、生きやすいんじゃないか、ということだけだ。

 なるべく自分が正しいと思うことをしよう、と思うだけで、明日も生きていけそうな、そんな気がするのだ。