中古屋が好きだ

 中古。夢がある。ロマンがある。いや、嘘だ。ロマンはあまりない。
中古屋。現代という高度資本主義社会においては、あらゆる商品が大量消費、大量生産される。それはゲーム、マンガのような娯楽商品に関しても同様である。
 いや、こんな風に大仰に語り合いわけではない。
 中古屋が好きで良く行く。具体的にはハードオフや鑑定団系の店。と書くと住所がバレてしまいそうだけど、まぁいいや。
 何が好きかというと、もちろん一番は、安く物が買える、ということ。
 最近は昔のように、市場価格をガン無視した、というか単純に値札係が価値を理解していなかったと思われるような、超低価格の掘り出し物を見つけることも少なくなってきた。多分、ちゃんとネット価格を参照するようになったのだろう。
 しかし、それでもごく稀に、掘り出し物が売っていることがある。そいつを見つけてレジに持って行く時の喜びはなにものにも替え難い。
そんな成功体験が忘れられずに、気がついたらまた中古屋に足を運んでしまう。
 しかし僕が中古屋に行くのは、そういった実利的な理由のみではない。
中古屋の雰囲気そのものが、僕はなんとも言えず好きなのだ
 中古屋にあるもののうち、何かしらの価値があるモノはごくわずかであり、それ以外のほとんどは、はっきり言ってガラクタだ。モノとしての役目を終えている。
 終わったモノたち。死んだモノたち。そんなモノたちが発する独特の空気を吸い込んでいると、まるで古い小説を読んでいるような気分になる。
 いかんいかん。うっかりナルシスティックな感じになっている。
 モノ。重要なのはモノである。
今、一年間にどれくらいのゲームが作られ、どれくらいのパソコンが売られ、どれくらいの漫画が買われているのだろうか。多分、ちょっと想像できないくらい多いのだろう。
  誰かが使わなくなったものが、中古品として中古屋に売られる。中古屋で売られたものが、また別の中古屋に売られたりする。そしてそれらの内、誰も買い手が つかなくなったようなガラクタが、やがて中古屋の奥の方に積み重ねられる。彼らは、いずれ捨てられるという運命を待っている。
  果たしてそこには、「救い」のようなものがあるのだろうか。モノに救いが必要なのか、という人がいるかもしれない。実際に、救いなんてものは必要ないのか もしれない。でも、なんであれ救いの無いものを見るのは忍びない。そして、僕は、そんな救いのないモノ達を、者達を、わざわざ好んで見に行く変人なのかも しれない。
 うん、今日はどうしてもナルシスティックになる。しょうがない。
 もう、中古屋なんかに行かない方がいいような気もする。新しいものを買って、長く使ったほうが、結果的に得する事のほうが多いんじゃないか、と最近思い始めている。でも、そのうちまた行きたくなるんだろうな、という気もする。さて、どうしたものだろう。