かく書く核

 いい文章を書くためにはなにが必要か。わからん。知らん。
 人生経験?そうでもない。人生経験と文章にはあまり関係はない。
 いや、関係はある。しかし人生経験の量と、文章の質の高さは比例しない。全然比例しない。びっくりするほど比例しない。
 と、さっきから頭の悪い文章を書いているのは、とにかく量を書くため、質を無視して書いているため、だと思う。脳のフィルタが緩いせいで、悪い文章が漏れ出ている。
 書きたい、と思う。なんのため?知らん。自由意志、などというものの存在を、僕は信用・信仰していない。
 ただ書けばいい、書きたいように。というのは、一つの回答である。もちろん解答ではない。僕は書く意味を問うている。そしてそれは、生きる意味を問うことに似ている。
 別に、生きることに先立って、意味が存在しているわけではない。意味というものは、生きている人間が、生きているがゆえに作り出せる物だ。
 じゃあ書くことについてはなにを言えるか?書くことによって、事後的に書く意味が生まれる、とでもいうのか?そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。
 いや、まぁ、だから、本当のことを言えば、なぜ書くのか、じゃなくて、書きたい、なんだけどね。ぶっちゃけばなし。だから正確には、なぜ書きたいのか、なんだよね。ってそれさっき書いたじゃん。もう。
 書きたい、なら、書きたい、で終わりにすればいいじゃん。他に何を考える必要があるのか。
 何かを書くためには、何を書くかという問題がまず最初に出てくる。うん、当然だ。
 何を書けばいいかを知るためには、なぜ書きたいのかを知る必要がある、ような気がする。だから考えたくなる。
 でも本当か?それって本当?なぜ書きたいのか、って、本当に大事?わからない。やっぱしわからない。