アクセス数を稼ぐには

 ブログを書いていない。いや、書いている。読書メモ。
 でもどうも、読書メモではアクセス数にならない。わかってる。アクセス数を上げるには、「必読の小説20冊」みたいなまとめ方をするべきなのだろう。でも、僕にはそれが出来ずにいる。
 なんて言えばいいのかな、僕の中で、読書っていうのは、そういうんじゃないんだよね。ってカッコつけんな。
 本当のことを言うと、なぜ自分が本を、特に小説を読むのかが、わかっていないというか、言語化出来ていないというか。まぁ、そんなの言語化出来っこないんだけどさ。
 僕が好むのは、太宰治町田康村上春樹、あと最近は高橋源一郎。それから小説家じゃないけど内田樹。彼らを縦軸として、そこから時々横に広がるように本を読んでいる。わかるひとにはわかるだろうけど、ものすごく偏っている。
 まず、ジャンル小説全般を食わず嫌いしている。「ミステリー」とか「ホラー」とかが帯に書いていたりするともうダメ。全く読まないわけじゃないけど。カートヴォネガットをSFと呼ぶべきなのか、伊藤計劃をミステリーと呼ぶべきなのか、僕にはよくわからない。
 逆に、いわゆる「純文学」と呼ばれる小説を積極的に読もうとする傾向がある。日本の作家なら、芥川賞をとっているとポイントが高い。とっていないというのもそれはそれで付加価値になる。逆に直木賞をとっているとむしろマイナス。もちろん例外もある。色川武大とかね。
 そうやって、「人間とはなにか」「小説とはなにか」みたいな小説ばっかり読んでいるくせに、僕自信に教養が無い。具体的に言うと、文系の教育を受けていない。なぜか理系の大学出身。どういうことだ。もちろん、高卒だろうと中卒だろうと、いわゆる文学作品と呼ばれるような小説を書いている人はいっぱいいるわけで、学歴で測るのは間違ってるんだろうけど。
 文学を突き詰めると、哲学に接近してくるのは必然なんじゃないか、なんて学の無い頭で考えたりしているんだけど、自分の生活ほど哲学と遠いものはないんじゃあないかという気がする。そもそもブログなんかかいちゃったりしてるし。どちらかと言えば哲学よりもニコ動の方がよっぽど身近である。最近はニコ動を論じる思想家なんてのも結構いるみたいだけど。
 何が言いたいのかわからなくなってきた。
 本を読んで、それを何かに役立てたい、と考えるのは、悪しき功利主義に陥る危険があってよくないとは思うのだが、それにしても、読書と自分自身の間での整合性がとれていないというか、人格の統一というか、そういえば「分人」なんて言っていた小説家もいたけど、そういうことかもしれない。つまり普段の自分、本を読む自分、ブログを書く自分がてんでばらばらで、そのせいで読書のことを上手くブログに書けないでいるのかもしれない。
 そもそもそれ以前に、僕が読んでいる本の性質と、ブログというメディアの性質が、水と油で全然相容れないものなんじゃないか、という疑念が、この文章を書いている間に湧いてきた。ううむ。