なぜか「文学的」についての話になった

 書かなければいけない。いや、書きたい。でも書くことがない。そもそも今僕はなーんにもやりたくないくらいに精神がガタついている。
 文章というもののよいところは、そーゆーガタついた精神についてすら記述可能だということかもしれない。死にたい、ということについて書くには、最低限書き手が生きている必要があるが、そういうことかもしれない。どういうことなのかはよくわからない。
 上手く書くためには、常に書き続けなければならない、という人がいる。自分の考えはちょっと違う。
 長く書くためには、常に書き続けなければならない、だと思う。
 長い文章を書くほど、文章の構造は複雑になっていく。もちろん例外はいくらでもあるけれど。
 より複雑な構造を自分で把握しながら組み立てていくために必要なのは、おそらく慣れとか技術と呼ばれるものだろう。
 でも、文章の上手さ、というと話が違ってくるだろう。
 というか、上手さ、という概念が漠然としすぎていてどうしようもない。
 強いて言うなら、書く文章は読む文章に影響される、ということだろうか。今度は当たり前過ぎて何の意味もないけど。

 ものすごく話が飛ぶけど、「文学的」という言葉を、「婉曲な表現をすること」だと思っている人が多いらしい。ソースは2ちゃんねるだけど。
 まとめは寝て読む : 文学的表現を鍛えるスレwwwwwwwwwwwwww
 文学的文章表現スレwwwwwwwwwwwwwwwwwwww : モテ速 | MOTESOKU
 一体どこでこういう誤解が生まれるのだろう。国語の教科書が悪いんだろうか?
 文学というのは、言葉を使った芸術であって、つまり「文学的な」というのは、「(言葉を使った)芸術的な」と言い換えられる。
 絵画に写実派と印象派がいるように、文学にも、直接的なものも婉曲なものもどちらも存在する。
 それに、芸術とは往々にしてマンネリズムを嫌う。どんなに美しい表現であっても、それが使い古されたやり方であれば、是としないことが多い。
 なんていうか、「文学」という概念があらかじめ存在しており、それを作品として具現化するのが文学者なのだ、と考えているせいで、誤解が生じるんじゃないかという気がしてきた。
 そうじゃなくて、あらかじめことばというものが存在して、ある種の人たちがことばをつかっていろいろやっているうちにどんどん盛り上がってきて、結果として後から文学という概念が作り出された、と考えた方が正しいんじゃないかと思う。
 文学的表現、というのは、どこまでいっても「文学っぽい」に過ぎず、文学的な表現をいくら集めても、文学作品は出来上がらないに違いない。