Amazonのブック・レビューを読んでいろいろ考えた

 ちきりん女史が書いた書籍のAmazonレビューを見ると、「優秀だからそんなことが言えるのだ」みたいな文言が散見せられる。この本とか。

ゆるく考えよう 人生を100倍ラクにする思考法

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 pha氏の本にも、「高学歴・高スペックだからニートをやれるのであって、凡人には役に立たない」みたいなレビューが多くついていて、なんか似てるな、と思いこの記事を書き始めた。

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

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 これらのレビュワーが言いたいことはある程度わかる。才能も経歴も豊かな人間の生きかたを、そうでない人々に対して一般化することは出来ない、という理屈である。

 しかし、考え方を変えれば、優秀な人が考察・著述したことだからこそ、一般の人たちにとって役に立つかもしれない、という理屈も成り立ちうる。あくまで理屈の上では。

 優秀な人々が、そうでない人々を教え導く。こういうのを啓蒙思想と呼ぶのだろう。多分。

 残念ながら、イマドキ啓蒙思想を本気で語るような人はいなくなっているみたいだ。それは、日本に反教養主義が浸透しきったことと関係しているのではないかと考えているが、僕自身に教養がないのであまり当てにはならない。


 こういうことを考えだすと、ついつい「昔の人はもっと教養を大事にしていたし、エラい人の話を真面目に聞いていたに違いない。いい時代だったんだろうなぁ」みたいなことを思いがちだが、そういう「時代を憂う」的テンプレートに安易にハマりこむのはあまりいいことではない。もっとニュートラルにいくべきだ。それが一番難しいんだけれども。

 本読みである都合上、文学、というものを例にとって考えると、明治を、あるいは日本の近代文学を代表すると言っていいであろう二人の文豪、夏目漱石と森鴎外はいずれも、「超キャリア組」である。あえて今風の言葉で言えば。

 夏目漱石なんかは若干エリート崩れの感も無いではないが、東大を出てイギリスに留学、という時点で十分「勝ち組」と言える。あえて俗な言葉で言うならば。

 そんな彼らが文豪となり得たのは、上述の啓蒙思想と全く無関係とは言えないんじゃないか。

 平たく言うと、東大出のエラい先生が書いたからウケた、という面があるんじゃないだろうか。

 もちろん、エラい先生が書いたからといって、内容までエラソーだったらそこまでウケなかっただろう。エラい先生が、普通の人でもわかるように、しかも面白く書いたからこそウケたんだろう。


 もうひとつ思い起こしたのが、ハルキムラカーミ、すなわち村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のAmazonレビューである。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 強引に要約すれば、「イケメンリア充が孤独を語るなんてちゃんちゃらおかしい」みたいなレビューが上位を占めている。なんだか冒頭に挙げた本のレビューと似ている気がしないだろうか。

 まぁ、『多崎つくる』は僕も読んで、村上春樹の他の作品と比べると普遍的に優れた作品とは言えないな、とは思ったけれど、「主人公がハナ持ちならない→駄作」と決めつけるのは、さすがに筋が通らないんじゃないだろうか。

 別にツマラナイと感じた小説をツマラナイと切り捨てるのは個人の自由だけれど、主人公が社会的に恵まれている、今風のことばで言えば高スペックであるという時点で、その作品との共感の回路を切断してしまう、というふるまいを見ると、なんかイロイロと大丈夫か?と、心配な気持ちさえ抱いてしまう。

 「リア充が孤独を語るな」という言説の裏側には、「非リア充のオレこそが孤独を知っている」という信念みたいなものが透けて見える。それって生きづらくないですか?そういうレビューが人気ということは、もしかするとそれだけ生きづらいと感じている人が多いのかもしれない。

 みたいなことを考えてしまうのは、僕が村上春樹の小説をよく読むから(「村上春樹ファン」では無い。多分)かもしれないが。


 別に、現代に啓蒙思想を復活せよ、なんてことは全然思ってない。ないけれど、優秀な人、恵まれた人の話もちゃんと聞く、という態度をとった方が、見識が広がってよいのではなかろうか。と、ここまで書いてとりあえずの結論。

 と書いてみたが、この結論自体、教養主義的なニオイがしないではない。どうも僕の発想はちょっと古いのかもしれない。うーん。