売春について考えたり考えなかったり。

売春。難しい問題である。なにが?

売春をするのは個人の自由なのか。売春は、自らの性を市場に差し出し対価を得る、立派でれっきとした職業たりうるのか。僕には確かなことは言えない。

かの思想家にして武道家の内田樹氏は「売春は身体を損なうからダメ、でも売春してる人は全力で保護すべし(超意訳)」と言っていた。その辺が、世間一般的で比較的平穏な意見だろうとは思う。

でも今日は、「自分の頭で」考えてみたい。ちきりん女史の本を読んだ影響で。さっきから出てくる人名がはてな脳すぎるぞ。

まず僕は、売春というのがどういうものか知らない。もちろん買春したことは無いし、風俗も、キャバクラも、クラブですら行ったことがない。っていうかクラブって何?

知り合いにそういうことをしたことがある人もいない。ただ本やテレビなどで聞き及んだことだけが、僕の中にある、売春についての全知識である。

SNSを介した売春が問題になっている、とニュースで見たが、本当にそんなことをするやつがいるなんて想像もつかない。見知らぬ女性とでも関係を持ちたい男と、体を売ってでもお金が欲しい女性が、世の中には一定数存在するらしい。

お金や名誉や快楽のために体をないがしろにするのは個人の自由である、というのが今の世の中の風潮なのだろう。だから人は売春をするし、ステロイドを打つし、ドラッグに走る。

個人の自由。とても便利で強力な言葉だ。対義語は「公の福祉」だろうか?

個人の自由を重んじるなら、自らの体を傷つけることはオッケーだろう。しかし、もし個人の自由よりも「共同体の秩序」を重んじるとしたら、成員の身体を毀損することはNGである。いや、売春が身体を傷つける行為かどうかはおいといて。

売春は長期的に見て、それをやる当人を幸せにするのだろうか?そこのところがよくわからない。「昔はウリをやってたけど、今はハッピーです」という人の話を寡聞にして聞かない。まぁ、そりゃそうだろうけど。

と、そんなことをウダウダ考えていても、世の中に持てる人がいて、持たざる人がいて、そこにカラダがあれば、売買春は起こってしまう。

もし、売春オールオッケーの世の中が顕現しており、自分がそこに生まれ育ったとしたら、僕は買春するだろうか。あるいは売春するだろうか。まぁ、するだろう。だってオールオッケー(って多分和製英語だろうなぁ)なんだから。

逆に、なぜ今の世の中は売春オールオッケーにならなかったのか。

キリスト教が悪いのか。でも、どこかに売春オッケーの宗教がある、あるいはかつてあったという話は聞かない。僕は知らないことが多すぎる。

いろいろ考えたけど、もし仮に自分の友人が売春をやりたいと言いだしたら全力で止めるだろうし、でも実際に売春してる人に会ったとしても石を投げるようなことはしたくないなぁ、と思う。普通。