なぜか「庶民感覚」について考えた

庶民感覚。普通の人は、どこで庶民感覚を養うのだろう。

家族。学校。職場。テレビ。そんなところだろうか。

翻って自分は、ネットにばかりかかずらわっている典型的なネット人間。そして自分の好きな本ばかり読む偏食読者でもある。お察し。

そんな生活のせいで、庶民感覚というのがどうもわからなくなってきている感がある感。

世の中的に、庶民感覚とはカップラーメンの値段がわかることだと、麻生太郎の件で明らかになった。

あの件に関しては、「おまえらが名家育ちのボンボンだったとしたら、カップラーメンなんか食う気になるか?」という疑問が無いではなかったが、まぁそれはいい。

ニュースなどで「庶民」という言葉が使われるのは、「卵の値上がりで庶民の生活に影響が〜」みたいな文脈が多い。つまり「庶民」という言葉は暗に「消費者」という意味を含んでおり、ださら「庶民感覚」は「金銭感覚」と大体同じ意味になる。

であるからして、この「庶民」という言葉自体、昭和という時代特有のものなんじゃないだろうか。

このポストネット時代に、Twitterで個人が「炎上」したりする時代に、「庶民」という言葉がリアリティを持ち得るだろうか。いやない(反語)。

だからつまり、僕が際立って庶民感覚を持っていないというわけではなく、日本人の誰もが庶民感覚の喪失を感じているのかもしれない。多分きっと。