村上春樹の小説の地名変更問題について

 村上春樹の小説の内容に関して、ある地方自治体が抗議したことで、単行本化に際して内容を変更することが決まった、とのこと。

 村上春樹「心苦しく、残念」町名変更へ 小説のたばこポイ捨て記述めぐり (デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース

 客観的に見て村上春樹作品のファンと言っていいであろう自分も、この抗議は正当であり、村上春樹側の対応も妥当なものだと思う。

 村上春樹作品は、今や世界各国で読まれている。そしてほぼ間違いなく、後年まで読み継がれることになるだろう。その影響力を考えれば、特定の土地のイメージを毀損するような表現は避けるに越したことはない。

 自分は今、現在進行形で村上春樹のエッセイ集『遠い太鼓』を読んでいる。1980年代後半に海外滞在していた頃に書かれたものだが、その中でも、海外の特定の国のことを、お世辞にも褒めているとは言えないような書き方で書いている。特に、イタリア人がいかに不真面目であり勤勉でないかというくだりは何度も出てきて、それを読むたびに「あぁ、やっぱイタリア人って恋愛とパスタのことしか考えてねぇんだなぁ」と思う(誇張)。

 でも、もしこれと同じようなことを、今村上春樹が小説中で書いたとしても、特に問題にはならないだろう。

 その国に対しての既にある世間的なイメージと大体合致しているし、それに、成員の人数が大きくなるほど当事者意識というものは薄れる。極端な話、「地球人はクソ」と言われて怒り出す人はまずいないだろう。っていうか怒る人のほうがおかしい。

 それから、村上春樹作品と北海道は、意外と縁が深い。自分が覚えている限りでも、『羊をめぐる冒険』と『ダンス・ダンス・ダンス』の作中で、物語の舞台として北海道が登場している。

 全てにおいて実名の地名を出しているわけではなく『羊をめぐる冒険』の中でその歴史がかなりの文量を割いて語られる「十二滝町」というのは北海道にある架空の地名である。モデルはあるみたいだけど。

 にもかかわらず、今回問題になった小説の中わざわざで実在の町の名前を出したのは、ここ最近の村上春樹の作風の変化も理由に含まれていると思う。

 例えば近作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の中では、トヨタの高級車『レクサス』の名前がガッツリ出てくる。

 なぜそのような作風にシフトしたのか。それはよくわからん。文芸評論家じゃあるまいし。

 ともあれ、そのような「流れ」で実在の地名を出したんじゃないか、というのは読んでいて感じた。

 つまりなにが言いたいかというと、この問題に関して「喫煙脳」がどうとか「〇〇の人はケツの穴が小せぇな」とか「村上春樹なんて大した影響力が無い」だとか「文学的必然性(って何?)がなかったのか」とか「表現の自由」がどうしたとか言う人もいるけれど、そういうのはあんまし関係ないんじゃないかなぁと思う、ということ。

 使った地名がもっと大きい地域を指すものだったら、あるいは村上春樹作品の読者数がもっと少なければ、今回のような問題は起こらなかったし、起こってしまったんだったら地名を変えれば(おそらく架空の地名に変えるだろう)済む話であって、どちらにも非はないだろう、と。