死んだ後の自分、という視点。

 新潮45に載っていた、内田樹の評論「急ぐことの罪深さ」を読む。

 命にかかわるような危機において最も重要な事は、急がず焦らず、冷静に状況を分析し、感覚を最大限に鋭敏にして、的確な判断を下すことだ、という。

 しかし、今の日本は、とにかく急ぐことが大事だという風潮になっている。「突破力」とか「決められる政治」とか。

 緊急事態に置かれた人間は、どうしても焦ってしまうものだが、そこで焦らないためには、時間感覚を先送りするという方法がある、という。

 時間感覚を先送りするとは、具体的は例えば、その危機的状況を回顧している未来の自分を想像する、というような身振りのことを指している。

 例えばアメリカ映画で上官がしばしば吐く名言(フルメタル・ジャケットの「逃げる奴は皆ベトコンだ、逃げない奴はよく訓練されたベトコンだ」的なやつ)には、その戦争を生き延びた後、再び集った戦友たちが酒を酌み交わしながらその名言を思い出す、というような場面を兵士たちに想像させるという効果がある、のだそう。

 もっとわかり易い例で言えば、旧日本軍の合言葉「靖国で会おう」もまた、英霊となって靖国神社で再会するという、未来における状況を想起させる言葉である。


 と、読んだ僕はそんなふうに理解した。どこまで合ってるかはわからないけども。

 これを読んで最初に思い出したのは、スティーブ・ジョブズが毎朝、鏡の前で「もし今日が人生最後の日だとしても、これからやろうとすることをやるだろうか」と自問自答していた、という話。

 一見焦っているようにも見えるが、今日死んだとしても悔いのないことをやろうとする、ということは、死んだ後の自分という視点から自分の人生を見る、行為に等しいのではないかと思う。


 ちょうど今、伊藤計劃の『メタルギアソリッド4 ガンズ・オブ・ザ・パトリオット』を読んでいる。

 こういう表現が適切なのかどうかわからないが、伊藤計劃の小説を読む人は、存命であればいずれ大作家になったであろう伊藤計劃の作品を想像せずにはいられないのではないか、と思う。あくまで個人的な意見だけれども。

 このことは、内田樹が書いていたことと何か関係があるだろうか。


 死刑を言い渡された囚人は、突然、絵を描いたり小説を書き始めたりと、創造的なことをやるようになるが、逆に無期懲役の囚人はみな無気力になる、という話を聞いたことがある。

 この話を聞いた時、「死」を知れば創造的になれるんだとしたら、その「死」とやらを知ってみたいものだ、と思った。正直言って。

 そして、そういう考え方は動機としてものすごく不順だな、とも思った。

 実際に、寿命が限られている、と知った人の多くは、悔いのない人生を送ろうと思い、行動するようになるのかもしれない。

 逆にそうでない人は、自分が死ぬなんてこれっぽっちも思わず、やるべきことを先送りにして生きている、と言えるのかもしれない。

 でも、どっちが本当に幸せな生き方なのか、というのは、誰にもわからない。本気でそう思う。

 もちろん創造的な生き方への憧れ、というのはある。結構ある。

 だとしても、人間万事塞翁が馬、という言葉があるように、人の幸せというのは、死ぬ瞬間までわからないし、もしかしたら幸せかどうかは死んだ後にも変わりうるものなのかもしれない。


 と、いつになくクソ真面目なことを書いてしまった。疲れてるのかな。うん、きっとそうだ。とりあえず寝よう。明日のことを考えながら。