苦しみと、頭を使うことについて

 頭を使う、というのはどういうことか、と考えている。きっかけは文學界今月号の高橋源一郎の連載『ニッポンの小説』を読んだから。僕はこの連載だけはかかさず読むようにしている。図書館で。だってこれだけのために買うのもアレだしさ。

 内容はというと、小山田浩子の『工場』という小説を取り上げていて、さらにそこにシモーヌ・ヴェイユの話も織り込んでいた。


 シモーヌ・ヴェイユという人は、偉い哲学者だったのだが、若い頃に「労働者階級の生活を知らねばならん」と思ってたのか思ってなかったのかは知らないが、とにかく工場でしばらく働いていたそうである。

 工場と言ってもなにせ戦前の頃の行動だから、とにかくムチャクチャ仕事がキツイ。で、仕事がキツイとどうなるかというと、考えるのを止めちゃおっかなー、と思うようになる、ということを『工場日記』という本に書いていたらしい。

 人は苦しみを受け続けると、考えるのを放棄するようになってくる。ますます苦しくなるから。というようなことは実は工場労働にかぎらず、日常生活においても起こっていることだろう。

 いろいろなことを考える小説がある。人がものを考えていない有りさまを描く小説がある。もし、考えていない人を考えている人であるかのように見せかける小説があるとしたら、それは結構ヤバイものなんじゃないか。


 というようなことを高橋源一郎は言っていた。というふうに僕は読んだ。

 読んだ僕は、オレって本当にモノを考えているのか、考えているつもりになっているだけなんじゃないか、というようなことを考えた。あるいは考えたふりをした。


 以前「貧乏になるとなにも考えられなくなる」というようなことを言っている人をネットで見かけた。っていうかちょっと探して見つけたけどこのページだと思う。

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 「カネが無いと頭がボーっとしてヤル気が無くなる」というようなことを皆が口々に言っている。シモーヌ・ヴェイユが言っていたようなことと同じなのだろう。

 一方で、僕が敬愛するとある小説家は「貧乏が創造性を生む」というようなことを言っていた。ちなみに毛沢東も「人間は若くて無名で貧乏でなければよい仕事はできない」というようなこと言っていた。って、共産主義者が言うとちょっと意味合いが変わってくるな、コレ。

 貧乏でも考えられる人とそうでない人の差はどこで生まれるのだろう?考えられるうちはまだそれほど困っていないだけだ、という考え方もできるが。