弱者とチキンラーメン。

 人生には意味なんてない、と思っている。なぜなら「意味」などという概念は人間が作り出したものに過ぎず、「意味」という概念に先立って存在するのが人生というものだと思うから。

 だから生きることにも意味はないし、死ぬことにも意味はなく、人を殺したければ殺せばいいし、それで刑事罰なりなんなりを受けるかどうかはそのときの状況次第であって、殺してはいけない理由もない。もちろんチキンラーメンを食べてもいい。

 どうして人は生きる意味を求めるのか。チキンラーメンだけでは物足りないのか。サッポロ一番派と麺づくり派がいるのか。僕にはわからないことだらけだ。僕にわかるのは、世の中は、弱者の声に耳を傾けようとする人と、そうでない人の二種類がいる、ということだ。

 僕はできれば前者でありたいと思っている。チキンラーメンを食べたいとも思っている。でも本当にそうあることができているかはわからない。

 なによりも、僕は、ただ見ているだけでなにもしない人間だ。単なる傍観者でしかない。そしてチキンラーメンにはギャバンのコショウをふりかける。臭みが消えるからだ。しかしわざわざ臭みを消してまで食べたいほどおいしいのかどうか、よくわからなくなってきている。惰性で食べているような気がする。

 ここで言う弱者というのは、人のことだけとは限らない。他の誰もが見向きもしないもの全てのことだ、例えば世界一の金持ちや誰もが羨む美女の心にも弱者は潜んでいるのかもしれない。チキンラーメンを食べるのかもしれない。

 僕はそんな弱者の声に惹かれていて、だから自分も弱者になっているのかもしれない、と考えるのは自己憐憫というヤツだろうか。チキンラーメンばかり食べている僕は、本当は弱者の振りをした強者にすぎないのかもしれないし、麺の達人なのかもしれない。