ぶーお、ぶーお。

 携帯電話が鳴らす緊急地震速報を初めて聞いたとき、なにかに裏切られたような気分になった。なんというか、毎日顔を合わせている家族が、外出先で知り合いと話している様子が、普段とぜんぜん違うということを知った時のような、「お前、そんな音出せたんかい!」と突っ込みたくなるような。

 われわれは日々、スマホやパソコンを使って生活しており、今現在僕もMacでこれを書いているわけだけれど、それらの機器には、緊急地震速報のアラームのような、普段は知ることない機能が、きっとたくさん詰め込まれている。そして知らないにもかかわらず、まるでそれらを自在に使いこなしているような錯覚を抱いてはいないだろうか。

 と、さも自分だけがみんなの気づかないことに気づいた、みたいな口調で書いてみたが、あらためて言うまでもなく、われわれはもうずいぶん前から、「わからない」ものに囲まれることに慣れすぎていて、イチイチ考えることをすっかり放棄するようになっていて、イチイチそんなことを考えるのは野暮なことだ、ということが共通認識になっている。ステーキを食べているときに「世界中で何億頭もの牛が殺されていて…」というようなことを言うやつは社会人失格の烙印を押されてオシマイだ。

 それはモノで溢れる社会の弊害ではないか…と評論家じみたことを言いたくなるが、そうとも言えないのは、別に昔の人だって木や水や土の由来を知っていたわけではなかったからである。

 現代社会にあるモノと、木や水や土との違いがあるとすれば、前者はごく最近になって作られたモノであるのに対し、後者はずっと昔から、それこそ人類誕生の頃から存在していたものだ、という部分にあるだろう。

 昔からあるものならば、それへの知識や経験を継承することも可能だが、新しいモノに関してはそうはいかない。だから電車の中でケータイで話したり化粧したりする人に対して、われわれはどうしていいのかわからないのかもしれない。