身体の考えを聞く、とは。

 あっちのブログで書いたとおり、グリスを塗ったHHKB Lite2 for Macの調子がすこぶるよろしい。打鍵音が静かなので気兼ねなくタイピングできる。ブログを書くためにキーボードを使うのではなく、キーボードを使いたいがためにブログを書く、みたいな感じになっている。本末の転倒事故。

 しかしそれに伴い、机の高さが合わないという問題が再燃してしまっている。薄さが最大のセールスポイントであるMacBook Airでタイピングするのにちょうどよかった机で、普通のメンブレンキーボードよりやや高さがあるHHKBを使っているのだから、高さが合わないのは必然である。

 おかげで肩や首が凝って仕方ない。椅子の高さを上げれば腕はちょうどよくなるが、そうすると今度は足が地面につかなくなる。短足。あと肘掛けが邪魔で椅子を引けなくなるのも地味にうっとーしい。どうも数年前からこんなことばかり悩んでいる気がする。進歩のないやつ。


 できれば正しいことをやって生きていきたいと思う。間違ったことはやりたくないと思う。でも、もちろんそれはとても難しいことである。

 正しいこととはいったいなんであるか、と考えてみると、正しさには、頭で考えた(数字的、記号的な)正しさと、身体で考えた正しさの二つがあるような気がする。というのは頭で考えた考えであるが。

 よく、頭だけでなにかを決めるより、身体に聞いてみろ、みたいな話を聞く。

 また、お金持ちだけど生理的に嫌な人と、貧乏だけど生理的に好きな人、どちらと結婚すべきか、みたいな話題もテレビなどでよく聞く。

 この二つの話を総合して考えると、身体の方の言い分を考慮して、貧乏でも生理的に好きな人と結婚すべき、という結論になるだろう。しかし本当にそれでいいのだろうか。

 確かに頭が間違いを犯すことはあるかもしれないが、身体だって同じように間違いを犯す可能性もあるのではないか。もし身体を気持ちよくすることがなにより大事なのだとしたら、ずっとハッパでもやってラリってるのがベスト、みたいなことになりかねない。

 頭だけでなく、身体も使って考えたほうが、より幅広い観点からものごとについて考えられる。それは正しいのかもしれない。

 でも頭も身体も、どっちも間違いを犯すことはあるので、もし間違ってしまっても、あまりくよくよにせず生きましょうよ、というくらいのことを言っておくのが、なにかと穏当なのかもしれない。大して面白みのない結論ではあるが、穏当な結論なんて退屈なものと相場が決まっている。


 なんてことを書いていたらまた首と肩が凝ってきたので、身体の考えを尊重してこのへんでやめることにする。それでいいのか?いいんじゃないの?ほんとに?わかりませんけど。