普通のメンタル

 普通のメンタルでいる、というのが最近の目標になっている。

 平常心、ということばがあるが、その言葉自体がすでに平常のことばではない。

 普通。普段通り。いや、もっとその先にある普通。

 例えば居間に寝っ転がってテレビを見ているような、そんな普通。なにひとつ心に背負っていないような状態。

 昔運動部にいたせいか、どうしても頑張るとか努力するとか集中するとか熱中するとか、そういうことに重きを置きがちになる。精神的な傾向として。

 そういうのを、行いとして行うのは、必ずしも悪いことではないと思う。

 でもメンタルの問題として、心の持ち方として、そういうのは別に必要ないんじゃないか。むしろ自分を追い込んでしまうだけなんじゃないか。積極的に無くすべきなんじゃないか。

 例えば本を読む時。どうも自分は、キチンと頭に入れようとか、集中しようとか、小説の場合は頑張って感情移入しようとか、そういう気負いを持ちがちだったような気がする。

 そしてそういう気負いのせいで、逆に本を読むことが億劫になってしまっていた面もあると思う。

 同じようなことは、文章を書くことについても言える。

 ちゃんとしよう、上手くやろう、失敗しないように気をつけよう。そんな気持ちがどこかにあった。

 もしかすると、自分の人生そのものについても同じようなことが言えるのかもしれない。

 不必要な気負いによって、上手く動けなくなっていたのかもしれない。

 もっといろんなことを、冷蔵庫に入ったお茶を飲むくらいの気軽さでやってみれば、ずっと楽になるのかもしれない。そうだったらいいのに。


 と、そんな考えでもって、生活における色々なことを「普通のメンタルでやろう」と心がけながらやるようにしている。

 もちろんうまくいかないこともある。でも前よりは少しだけ生きるのが楽になったような気もする。ただ単に無気力になっただけのような気もするけども。

 

眠り

 心にわだかまっていることがあると、眠りが浅くなる。当然の帰結だ。

 そして人生において、大抵の問題は、ハッキリとした解決を見ることなく、あいまいなまま置き去りにされる。そのまま人生の時間は過ぎていく。

 例えばこのブログのアイコンにしている写真は7年ほど前に撮ったもので、とてもやりきれない気分で撮ったものなのだが、そのときのやりきれない気分の大半は今も引きずったままだ。

 あらゆる苦しみを、あらゆる過去と未来を、あらゆる罪を、あらゆる「しでかし」を、全て忘れることができれば、ぐっすりと眠ることができるのかもしれないし、あるいは全て忘れなくても、いったん脇に置いてぐっすり眠ることが、処世術、というものなのかもしれない。

 そのとき男は酒を飲むのでしょう、というような歌もあった気がする。そのようにしたとしても、誰も責める人はいないだろう。でも少なくとも今は、そんな気分にはなれそうもない。

 急に、自分の思っていることを書きたくなる。そういう時期がやってくる。意味とか理由とかと無関係に。

 感情にした蓋が、突然外れたみたいな。

 感情を押さえつけるのは良くないことだと言われている。

 でも生きるためには、ある程度の感情の「溜め」があったほうがいいのかもしれない。時々開放してあげればいい。


 自分には、自分に合ったスピードとスタイルがある。それを外れるとシンドくなる。

 周りを気にしすぎると、それにつられてスピードとスタイルが崩れてしまう。

 だからって、周りに無頓着であっていいわけではない。そのバランス。


 考えたり、考え続けたりする。それ自体が面白くなる。でも何も生まれない。でも楽しい。

 そういう遊びだと思えばいい。


 相手のことを考える。ひとりでは生きられないから。

 そこにコミュニケーションと、ディスコミュニケーションが生まれる。欲しいから傷つける。


 面白い刺激的なものが、考えることを妨げる。でも面白いものを無くしたら、なんで生きてるかわかんなくなる。


 僕の考えは、僕の見たり聞いたりした考えの寄せ集めだ。その組み合わせ方に個性が出る、と言いたい気持ちもある。でもそれも幻想かもしれない。

 順序立てて論理的にやっていてはたどり着けない場所がある、と思いたい。でもそれも幻想かも。


 本を読みたい。でも最近は、本屋に行ってちょっと立ち読みするだけで満足してしまう。

 本当は満足できてるわけじゃない。家に持って帰ってじっくり読みたい。でもそのためには、読みきれるかわからない本を買わなきゃいけない。失敗するかもしれない。そんなお金も場所も無い。

 つまらなかったら売ればいい。それはそうなんだけど。売るのもタダじゃない。差し引きマイナス。


 要するにTwitterに書きたくても書けないことをここに書いてるのかもしれない。気を使ってる。ムダに。マストドン始めたい。

 少し何かを考えたいときは、こっちのブログを書き始めることになる。

 自分の頭で考えるということを怠りがちになる。そんなことしても、くたびれるわりに、上手くいくわけでもないから。むしろ上手くいかなくなったりするから。

 頭で考えると、体の動きが疎かになることは避けられない。人間のキャパシティは限られているから。

 でも頭で考えることは無駄じゃない。

 体はワンパターンだ。与えられた刺激に、特定の反応を返すだけだ。

 でも頭は違う。頭は言葉を使って考えることが出来る。そして、言葉は、自由に組み替えることが出来る。現実にない言葉を生み出すことさえ出来る。

 だから言葉は、行き詰まったときの突破口になりうる。「ハマり」から抜け出すことが出来る。場合によっては。


 人生には、上手く行かないことがある。どんな人間でも、常に成功し続けられるわけではない。まして自分のような凡人が、だ。

 問題は、上手く行かないときの負の気持ちをどこに持っていけばいいのか、ということだ。それがわからない。それが難しい。

 あらゆることをポジティブに、好機と捉えられるようになればいいのか。そんな風にはなれそうもない。なりたくもない。

 違うアプローチを試したり、別の道を探ったりすればいいのかもしれない。でもそんな風にして24時間前進し続けていたら、(大げさに言えば)ぶっ倒れて死んでしまうのではないかという恐怖が少しある。頑張りのちょうどいい量がわからない。

 頑張って、我慢するだけで、全部上手くいくなら簡単だ。でも、それだけだとどこかで壁にぶつかる。乗り越える方法を見つけなきゃいけない。いつ見つかるかわからない。辛い。

 それでも考えて生きていくしか無い。自分の面倒を見られるのは自分しかいない。

 大切なものを犠牲にして、欲しいものを得たとして、それは本当に幸せだと言えるのか。欲しいものを得ることイコール幸せなのか。

 間違ったやり方で、欲しいものを得てしまったら、ずっと後悔することになるかもしれない。

 たとえ欲しいものを得たとしても、自尊心やプライド捨ててしまったら、自分が自分であることをやめてしまったら、意味が無くなってしまうかもしれない。

 正しくありたいわけじゃない。自分に正直とかそういうことを言いたいのでもない。ただ、本当にいいと思えることをしたい。

 正しいと思って間違ったことをするのと、間違っているとわかって間違ったことをするのでは、意味が違う。

 もちろんそんなような気持ちをいつも持ち続けられてるわけじゃないけど。

 やはり長時間歩いた日は体調がいい。というかそもそもが運動不足すぎるのだろう。しかし歩きすぎると足腰にダメージが蓄積するというジレンマ。

 普段書いてる日記に体調についても書くようになった。その方が客観的に自分を観察できる気がして。


 全ての言葉は文脈に依存している。だから絶対確実に言葉を伝えることは原理的に不可能だ。そういうことからひとつずつ確認していかなければならない。そんな気がする。なんとなく。

 とても孤独になったような気がするし、もともと孤独だったような気もする。本当のところはよくわからない。

 どっちにしたって、それはそれとして、なんとかやっていかなければならないのが人生の辛いところだ。

 そのためには、やれるだけのことはやっておかなければならないのだろう。人事を尽くして天命を待つ。則天去私。そんな言葉もある。今僕は、異常に漠然としたことを言っている。

 あらゆる人が健やかであればいいと思う。というような物言いはもしかすると無責任ですらあるのかもしれない。だからと言って他に言うべきことがあるようにも思えない。

 何かのことを大切に思う。その思いは、偽物ですらなく、何かを覆い隠すためのカバーシートのようなものに過ぎないのかもしれない。

 正当性などどこにもない。黒でも白でもない。そうだとしたら、全て委ねるしかないのかもしれない。しかしそれすら単なる責任回避なのかもしれない。

 そんな何もかもグレーみたいなところでも、やはりなんとかやっていかなければならない。人生は辛い。

 長時間歩く。昔聴いたお笑い芸人のラジオを聴く。それで少し楽になる。同じことを以前からやっているが、効く時と効かない時があるのはなぜだろう。

 辛いことは、言葉にした方が楽になる。でも言葉にできるようになるまでには、しかるべき時間が必要だ。人によっては墓まで持っていくこともあるだろう。

 不本意な形で家族と別に住むことになり寂しい。友人と疎遠になってしまって寂しい。

 そんな、言葉にすれば簡単なことを、言葉にするまでにずいぶん時間がかかってしまった。


 寂しいんだったら寂しくなくなるように行動すればいいじゃないか、と思う。でもそれって、結局自分のエゴなんじゃないか、とも思う。っていうかきっとエゴなんだろう。

 ということを書くこと自体もエゴであるに違いない。でも言葉は伝えなければ伝わらない。そのことがエゴに対する免罪符になるかどうかはわからないけれど。