引き続き猫。

 相変わらず猫の話。

 すっかり我が家に居着いた猫。しかし出かけるときは出かける。半家猫状態。大抵夜には帰ってくる。明け方に出ていくことが多い。

 そして今。ベッドで仰向けに寝た僕の胸の上に乗っている。すっかり人のことをベッドだと見なしている。にくいやつである。

 しかしどうも体調が万全という感じではない。目やにや鼻水が出る。たまに鼻血も出す。胸の上からくしゃみ攻撃してくるので大変。

 そんな体調だというのに雨の中でも構わず出かけてしまう。これでは治るものも治らない。まったく。

 首元の傷口も少しずつ治ってはいるがまだまだ完治には遠そう。早く元気になって欲しい。

 エサも選り好みする。肉や魚なら確実に食べるが、フレーク状のいわゆるカリカリは食べたり食べなかったり。安い缶詰には一切口をつけない。とんだ贅沢ヤローである。

 わがままで気まぐれ。でも可愛いから許してしまう。そしてモフモフ。そんな魔性。それが猫。何千年も昔からペットとして生き残れた理由がよくわかる。

 また僕の上でくしゃみをした。鼻水が飛んでくる。でも許す。なぜなら猫だから。そんな夜が更けていく。


 

 2ヶ月ほど前、庭に野良猫がやってきたのを家族が見つけた。

 ケガか病気かわからないが、首元の毛皮がはがれたようになっていて、とても痛々しい。

 エサや水をあげると、ほぼ毎日庭にやってくるようになった。人に慣れているので元々は飼い猫だったのかもしれない。病院にも連れて行き、塗り薬をもらった。

 日々触れ合ううちに、どんどん僕や家族に慣れてきた。頭をこすりつけてきたり、膝の上に乗ってくるようになった。

 やがて家に入れるようになった。最初は戸惑っていたが、一通り家の中を見て回ると危険がないことがわかったようで、すぐにリラックスし始めた。

 そして今では同じベットで寝るようになった。っていうか寝てる。これを書いてる今現在、僕のふくらはぎに前足を置いて座り込んで寝息を立てている。

 
 元々猫好きだったが、実際の猫と触れ合ったことはあまり無かった。そして今。こうして現実の猫と触れ合っている。

 夢のようである。ふわふわしている。あったかい。甘えてくる。エサや水をせがむ。撫でるとお腹を見せる。肉球がある。なんだか香ばしいにおいがする。

 どうやらそこそこ歳をとっているらしく、あまり動き回らないのが予想と違っていたが、そんなのはささいなことだ。そこに猫がいるだけで十分以上だ。

 外に出たがる時もある。1日帰ってこないこともある。そんな時は寂しい。真っ当に寂しい。

 果たしてこれからもこの家にいてくれるのか。それとも来た時のようにふらっと何処かへ行ってしまうのか。それは猫次第だろう。

 傷の方は少しずつ治ってきているようだ。完治したら一度本気でじゃれあってみたいものである。それも猫の気分次第だろうけども。
 

普通のメンタル

 普通のメンタルでいる、というのが最近の目標になっている。

 平常心、ということばがあるが、その言葉自体がすでに平常のことばではない。

 普通。普段通り。いや、もっとその先にある普通。

 例えば居間に寝っ転がってテレビを見ているような、そんな普通。なにひとつ心に背負っていないような状態。

 昔運動部にいたせいか、どうしても頑張るとか努力するとか集中するとか熱中するとか、そういうことに重きを置きがちになる。精神的な傾向として。

 そういうのを、行いとして行うのは、必ずしも悪いことではないと思う。

 でもメンタルの問題として、心の持ち方として、そういうのは別に必要ないんじゃないか。むしろ自分を追い込んでしまうだけなんじゃないか。積極的に無くすべきなんじゃないか。

 例えば本を読む時。どうも自分は、キチンと頭に入れようとか、集中しようとか、小説の場合は頑張って感情移入しようとか、そういう気負いを持ちがちだったような気がする。

 そしてそういう気負いのせいで、逆に本を読むことが億劫になってしまっていた面もあると思う。

 同じようなことは、文章を書くことについても言える。

 ちゃんとしよう、上手くやろう、失敗しないように気をつけよう。そんな気持ちがどこかにあった。

 もしかすると、自分の人生そのものについても同じようなことが言えるのかもしれない。

 不必要な気負いによって、上手く動けなくなっていたのかもしれない。

 もっといろんなことを、冷蔵庫に入ったお茶を飲むくらいの気軽さでやってみれば、ずっと楽になるのかもしれない。そうだったらいいのに。


 と、そんな考えでもって、生活における色々なことを「普通のメンタルでやろう」と心がけながらやるようにしている。

 もちろんうまくいかないこともある。でも前よりは少しだけ生きるのが楽になったような気もする。ただ単に無気力になっただけのような気もするけども。

 

眠り

 心にわだかまっていることがあると、眠りが浅くなる。当然の帰結だ。

 そして人生において、大抵の問題は、ハッキリとした解決を見ることなく、あいまいなまま置き去りにされる。そのまま人生の時間は過ぎていく。

 例えばこのブログのアイコンにしている写真は7年ほど前に撮ったもので、とてもやりきれない気分で撮ったものなのだが、そのときのやりきれない気分の大半は今も引きずったままだ。

 あらゆる苦しみを、あらゆる過去と未来を、あらゆる罪を、あらゆる「しでかし」を、全て忘れることができれば、ぐっすりと眠ることができるのかもしれないし、あるいは全て忘れなくても、いったん脇に置いてぐっすり眠ることが、処世術、というものなのかもしれない。

 そのとき男は酒を飲むのでしょう、というような歌もあった気がする。そのようにしたとしても、誰も責める人はいないだろう。でも少なくとも今は、そんな気分にはなれそうもない。

 急に、自分の思っていることを書きたくなる。そういう時期がやってくる。意味とか理由とかと無関係に。

 感情にした蓋が、突然外れたみたいな。

 感情を押さえつけるのは良くないことだと言われている。

 でも生きるためには、ある程度の感情の「溜め」があったほうがいいのかもしれない。時々開放してあげればいい。


 自分には、自分に合ったスピードとスタイルがある。それを外れるとシンドくなる。

 周りを気にしすぎると、それにつられてスピードとスタイルが崩れてしまう。

 だからって、周りに無頓着であっていいわけではない。そのバランス。


 考えたり、考え続けたりする。それ自体が面白くなる。でも何も生まれない。でも楽しい。

 そういう遊びだと思えばいい。


 相手のことを考える。ひとりでは生きられないから。

 そこにコミュニケーションと、ディスコミュニケーションが生まれる。欲しいから傷つける。


 面白い刺激的なものが、考えることを妨げる。でも面白いものを無くしたら、なんで生きてるかわかんなくなる。


 僕の考えは、僕の見たり聞いたりした考えの寄せ集めだ。その組み合わせ方に個性が出る、と言いたい気持ちもある。でもそれも幻想かもしれない。

 順序立てて論理的にやっていてはたどり着けない場所がある、と思いたい。でもそれも幻想かも。


 本を読みたい。でも最近は、本屋に行ってちょっと立ち読みするだけで満足してしまう。

 本当は満足できてるわけじゃない。家に持って帰ってじっくり読みたい。でもそのためには、読みきれるかわからない本を買わなきゃいけない。失敗するかもしれない。そんなお金も場所も無い。

 つまらなかったら売ればいい。それはそうなんだけど。売るのもタダじゃない。差し引きマイナス。


 要するにTwitterに書きたくても書けないことをここに書いてるのかもしれない。気を使ってる。ムダに。マストドン始めたい。

 少し何かを考えたいときは、こっちのブログを書き始めることになる。

 自分の頭で考えるということを怠りがちになる。そんなことしても、くたびれるわりに、上手くいくわけでもないから。むしろ上手くいかなくなったりするから。

 頭で考えると、体の動きが疎かになることは避けられない。人間のキャパシティは限られているから。

 でも頭で考えることは無駄じゃない。

 体はワンパターンだ。与えられた刺激に、特定の反応を返すだけだ。

 でも頭は違う。頭は言葉を使って考えることが出来る。そして、言葉は、自由に組み替えることが出来る。現実にない言葉を生み出すことさえ出来る。

 だから言葉は、行き詰まったときの突破口になりうる。「ハマり」から抜け出すことが出来る。場合によっては。


 人生には、上手く行かないことがある。どんな人間でも、常に成功し続けられるわけではない。まして自分のような凡人が、だ。

 問題は、上手く行かないときの負の気持ちをどこに持っていけばいいのか、ということだ。それがわからない。それが難しい。

 あらゆることをポジティブに、好機と捉えられるようになればいいのか。そんな風にはなれそうもない。なりたくもない。

 違うアプローチを試したり、別の道を探ったりすればいいのかもしれない。でもそんな風にして24時間前進し続けていたら、(大げさに言えば)ぶっ倒れて死んでしまうのではないかという恐怖が少しある。頑張りのちょうどいい量がわからない。

 頑張って、我慢するだけで、全部上手くいくなら簡単だ。でも、それだけだとどこかで壁にぶつかる。乗り越える方法を見つけなきゃいけない。いつ見つかるかわからない。辛い。

 それでも考えて生きていくしか無い。自分の面倒を見られるのは自分しかいない。

 大切なものを犠牲にして、欲しいものを得たとして、それは本当に幸せだと言えるのか。欲しいものを得ることイコール幸せなのか。

 間違ったやり方で、欲しいものを得てしまったら、ずっと後悔することになるかもしれない。

 たとえ欲しいものを得たとしても、自尊心やプライド捨ててしまったら、自分が自分であることをやめてしまったら、意味が無くなってしまうかもしれない。

 正しくありたいわけじゃない。自分に正直とかそういうことを言いたいのでもない。ただ、本当にいいと思えることをしたい。

 正しいと思って間違ったことをするのと、間違っているとわかって間違ったことをするのでは、意味が違う。

 もちろんそんなような気持ちをいつも持ち続けられてるわけじゃないけど。