書くことについての締まりのない雑文

 本当に書くことが好きだったら、自分自身のためだけに書くことが出来るのかもしれない、と考えて、でもやっぱり違うな、とも思う。
 読む人がいるから書くのだ。んー、ちょっと違う。
 誰も読まない文章は、もはや文章ではない。
 とは言うものの、自分が書いた文章を自分で読まない、ということは原理的にあり得ない。
 でも、「あまり」読まない、ということはあり得る。いわゆる、書き飛ばしというやつ。
 誰も読まないし、自分でもほとんど読み返さない、推敲もしない。そういう文章は、「あまり」文章ではない。コレならあり得る話かもしれない。
 なんの話だったか。
 書くのは楽しい、ということ。でも、誰も読まない文章を書くのはあんまり楽しくない。っていうか、全然楽しくない。
 その点、ブログ、という媒体はなかなかに素晴らしいものだと思う。
 ネット上に放流しておけば、誰かが呼んでくれる可能性がある。
 あくまでも可能性に過ぎないわけだけれど、可能性が0%と0.001%とでは、大いに差がある。
 だから、何?
 いや、でもね、最近自分の書く文章がどうも雑になってきていると感じるのであるよ。
 昔は、一度書いた文章を、音読、とまではいかないけれど、心の中で音読する感じで黙読して、推敲していた。
 でも、最近そういうこと自体をあんまししない。
 しろよ、と思う。よし、しよう、と思った。とりあえず今からやってみる。

 本当に書くことが好きだったら、自分自身のためだけに書くことが出来るのかもしれない。と考えて、でもやっぱり違うな、とも思う。
 文章と言うものは、読む人がいるからこそ書けるのだ。んー、ちょっと違う。
 誰も読まない文章は、もはや文章ではない。
 とは言うものの、全ての文章には、書かれた瞬間から、一人の読者が存在する。自分だ。自分が書いた文章を自分で読まない、ということは原理的にあり得ない。
 いや、一応例外は存在する。円城塔の「これは、ペンです」に登場したみたいな、自動生成された文章が存在するとしたら、読者が存在しない文章というのはありえるかもしれない。あの小説、最初の方しか読んでないけど。
 他に、書いた本人が「あまり」読まない文章、ということのあり得る。いわゆる、書き飛ばしというやつ。
 誰も読まないし、推敲もしない文章。そういう文章は「あまり」文章ではない。コレならあり得る話かもしれない。
 なんの話だったか忘れてしまった。元々本筋なんて無かったのだけれど。
 文章を書くのは楽しい。でも、誰も読まない文章を書くのはあんまり楽しくない。っていうか、全然楽しくない。
 その点、ブログ、という媒体はなかなかに素晴らしいものだと思う。
 ネット上に放流しておけば、誰かが読んでくれる可能性がある。
 あくまでも可能性に過ぎないわけだけれど、可能性が0%と0.001%とでは、大いに差がある。
 だから、何?
 いや、でもね、最近文章の書き方がどうも雑になってきていると感じるのであるよ。
 昔は、一度書いた文章を、音読、とまではいかないけれど、心の中で音読する感じで、一通り黙読しながら推敲していた。
 でも、最近そういうこと自体をあんまししない。
 しろよ、と思う。よし、しよう、と思った。とりあえず今からやってみる。

 以上が、一通り推敲した文章である。
 果たして、推敲の効果はあるのだろうか?自分でもよくわからない。
 まぁ、元がどうしようもない文章だったので、推敲してもしなくても変わらないような気もする。
 まぁ、まぁばっかり使うのはあまり好きではないけれど、そもそも、ここに書いた諸々のこと自体が、結構どうでもいいことであるような気がしてきたので、そろそろ寝ることにする。