自分に酔う詩。

 フィクションを作りたいと思う。なぜか?それは、ノンフィクションでは描くことが出来ないことがあるからだ。おそらく、たくさん。

 フィクションを作るのはなんとなく気恥ずかしい。なんでだろうか?

 詩、というものについても同じことが言える。

 詩なんて、クオリティを求めなければ誰にでも簡単に作れそうな気がする。でも僕は詩を書かない。詩を書けない。

 なぜだろう?と前々から考えていた。

 詩を書くのってなんとなく恥ずかしいから、ではないか?と、今日気づいた。今までの人生の中で、初めて気づいたのである。

 正確に言うと、詩を書いて他人に見せるのが恥ずかしい。だから僕は詩を書かないのではないだろうか。

 では、なぜ詩を書いて他人に見せるのは恥ずかしいのか。

 自分に酔ってるみたいだから、ではないだろうか。あるいは、人は詩を書こうとするとなぜか自分に酔ってしまいがちになるから、ではないだろうか。

 しかし考えてみると、名作とされる詩の中にも、完全に自分に酔ってるみたいものが結構ある。っていうか、フィクションにおける詩人というのは、大抵の場合、激しく自分に酔っているキャラクターとして描かれる。

 どういうことだろう。

 自分に酔うのが詩人なのか。それとも、言葉を突き放すことが出来るのが詩人なのか。

 いや、多分世の中にはいろんなタイプの詩人がいて、自分に酔っていたりいなかったりするのだろう。だから詩人一般について考えても仕方ないのかもしれない。

 今問題なのは、自分に酔う、というところだ。

 自分に酔う、というのは具体的にどういうことか、というところから初めてみよう。

 自分に酔う。それはつまり、他人からの目を気にしない、ということだ。

 他人からの目を気にしない、ということは、自分で自分を批判的に見ない、ということだ。

 じゃあ、自分で書いたものを詩的に批判的に見てオッケーだったら、それは詩になるんだろうか。

 そうかもしれない。それはひとつのアプローチなのかもしれない。

 もう寝よう。