葬式に出て思った、葬式とはあまり関係のないこと

先日書いたとおり、親族に不幸があって、その葬式が終わった。

こういうとき、どんなことをブログに書いていいのかわからない。実名で書いているなら、一通りの挨拶的なものを書けばいいのかもしれないけれど、匿名というスタンスで書くことに決めているので、どうしたものか。

あるいは「書かない」というのが正しい選択肢なのかもしれないけれど、なるべく毎日書くことを目的としているので、できることなら書きたいのであるよ。

突然だけど、「ビールを注ぐ」という行為が、一種のビジネスマナーであるということを初めて知ったよ。勤めの経験が無いもので。親戚にビール注ごうとしてガンガンこぼすオレ。辛いよ。ダメでがすよ。

そう。自分のダメさ。例えばこんな風に他人に秘密でブログを書いていること自体がダメさの根源なのかもしれないとも思ったりする。

夢を追ってなにかをやっても大抵上手くいかないが、なにかをやめることならできるのかもしれない、と小田島隆が言っていた。僕もなにかをやめるべきなのかもしれない。最近はそんなことを考えている。

格ゲーをほぼやめた。正確に言うなら、ネット対戦におけるランクアップを目標に格ゲーをやるのをやめた。格ゲーは面白いのだが、時間をとりすぎるわりに、最近では成長が感じられなくなってきたので、個人的に面白くなくなった。また再開する可能性もあるが。

かわりに、ほぼ毎日筋トレをするようになった。といっても一日に一時間弱程度だが。

体というのは使わないとどんどん衰えていく、ということを感じるようになった。大人ってそういうもんなのだろう。これがもっと年をとると、使ってても衰えるようになるのだろう。

って、気づいたら自然に「やめる」ことができてるじゃん。本当は、筋トレ始めたは自然と格ゲーやらなくなった、というのが実情なのだけれど。

もっとなにかをやめてもいいかもしれない。読書を、やめる、というのもちょっと考えた。この六年ほどで300冊ほどの本を通読してきた。国民全体で見れば多いだろうが、読書家全体で見れば少ない。しかし自分は読むのが遅いので、時間で見ればかなりの長時間を費やしてきたことになる。

その読書をやめるとしたら、どんなときだろう。多分、読書によって生じる苦痛が、喜びを上回ったときなのではないか。果たしてそんな日が来るのか。

苦痛は結構増している。本を読むのも体力がいる。もう昔みたいに徹夜で本を読んだりすることはほとんどない。

喜びは昔と変わらずある。面白い本はまだまだありそうな感じ。

少なくとも、今のところ読書をやめるということは想像できない。

ただ、読書をやめればビールを注ぐくらいの社交性は獲得できるんじゃないか、なんてことを思ってしまってブルー。