歩くこと、考えること、利尻昆布。

 出かけるときはなるべく多めに歩くようにしている。運動不足解消のため、というのもあるが、歩きながら考えごとをするため、でもある。

 深夜に考えごとをするのはよくない、というようなことをよく聞くが、歩きながらする考えごとは、むしろ心にいい、気がする。

 うっかり考えが暗い方に傾いてしまうこともある。っていうかしばしば傾く。でも、歩きながらだと、大抵なんとかなるのである。前に進む、という体の動きにつられて、思考の方も自然に前に進んでくれるのかもしれない。

 以前歩いた場所をもう一度歩くと、そのとき考えていたことが蘇ったりするのも面白い。思考、というほどはっきりとした形を持ったものではなく、ぼんやりとしたイメージや過去の記憶だったりすることが多いけど。

 辛いとき、苦しいときほど歩きたくなる。歩いたって問題そのものが解決するわけじゃないのに、歩きながら思考をぐるぐるめぐらせていると、いつの間にか「まぁ、どうにかこうにかやっていこう」というような気持ちになっているから不思議だ。逆に、最近調子が悪いな、と思ったら、実はあまり歩いていないせいだった、ということもある。

 歩きながらラジオのPodcastを聞くこともある。こちらは考えごとをしたくない時に適しているのだが、ついつい面白くてPodcastばかり聞いていると考えごとがおろそかになりがちなのが難点である。

 偉大な思想家や作家の中には、散歩を日課としていた人も多い。哲学者のイマヌエル・カントは、毎日決まった時間に決まった場所を散歩するので、街の人々は彼が通るのを見て時計のズレを調節していたそうである。また、以前読んだ小説家の古井由吉とお笑い芸人の又吉直樹の対談でも、散歩の効用について語っていたのを覚えている。「ただ歩いているだけでもなにか考えが浮かんでくるような街であってほしい」というようなことを話していたと思う。

 もちろん、散歩をしたからといって偉大な人間になれる、と思ったら大間違いである。そーいうのを「論理的誤謬」というのですよ。そうではなくて、さほどに歩くということと考えることは相性がよいのではないか?ということを、わたしは言いたい、のである。小さな声で。利尻昆布をしゃぶりながら。なんで?