いい文章を書くためのメソッドなど存在しない。
句読点がどうとか、改行の数がどうとか、漢字とひらがなの割合がどうとか。そんなことを気にして文章を書いても、「文章力」が上がったりはしない。ただ、「それっぽい」文章になるだけだ。
別に、新聞記者になりたいなら、新聞記者っぽい文章を書けばいいし、ブロガー(?)になりたいならブロガーっぽい文章を書けばいい。それを咎める理由はない。
それっぽい文章というのは、言い換えれば、符丁やジャーゴンのようなものである。読む人に「オレが知ってるああいう文章と同じような文章なんだな」と思ってもらうための書き方である。
確かにそれっぽい文章には、メリットがある。それは、書く方も読む方も、脳の負担が少なくて済む、ということだ。
書く人は書きたい題材を毎回決まった型にはめて書くだけなので楽だし、読む方も、いちいち型を気にせず読める。それっぽい文章とは、テンプレートみたいなものでもある。
でも、テンプレート的な文章には弱点がある。それは、テンプレートの外にあるものごとについて語ることができない、ということであり、テンプレートを共有しない人へ届けることができない、ということだ。
そして、人がほんとうに何かを伝えなければならないときというのは、常にテンプレートの外にあるものごとを、テンプレートの外にいる人に向かって伝えなければならないとき、なのではないだろうか。
そのような状況においては、接続詞がどうとか、一文は短くとか、そんな細かいことはいちいち気にしていられない。というか、その都度自分で必要なやり方を見極めるべきなのであって、モノサシで計るように決まったやり方で文章を書いても、なんの面白みも感動も生まれないのではないか。
むしろいい文章とは、型をはみ出た時に、初めて生まれるのではないだろうか。
ま、僕はそんな文章書けたこと無いけどね。