自分の犯した失敗が、かつて一度犯した過ちと、ほとんど同型である、ということに、今頃になって気づいた。
もう遅い。犯す前に気づかなければ、なんの意味もない。このようなことを指して、アフターフェスティバル、もしくは後悔先に立たず、と呼ぶのだ。まいったね。
まるで進歩していない自分自身の愚かさに、ほとほと嫌気がさす。と同時に、ほんの少しだけ、安心感を抱いてしまっている自分もいる。あぁ、このミスの正体は、あのときのアレと同じなんだな、と。
そりゃ自分の間違いの正体がわからないよりは、わかったほうが安心できるかもしれないが、しかしそもそも安心なんかしてる場合じゃあないだろう。なにせ大きな過ちを犯してしまったんだから。
前回ミスったときは、その苦しさがほぼ消えるまでに、年単位の時間がかかった。多分今回も年単位の苦しみが待っているだろう。って軽く言ってるけど、人ごとじゃあないんだよ。まったく。
その時は「心が壊れてしまうのではないか」と思うほどの苦しみでも、時間が経てばだんだんと苦しみは和らいでいき、やがて痛みのないただの「思い出」になっていく。あとに残るのは、ほんのわずかの苦味だけだ。ほろ苦い思い出。うまくいけば笑い話にできるかもしれない。
そのことがわかるようになってきたのは、おそらく一般的に「大人」と呼ばれるような年齢まで生きてきたおかげなのだろう。ちょっと哀しい気もするけれど。
でも、世の中には、本当に心が壊れてしまうほどの傷を受けてしまう人もいる。いや、実際に会って話したことはないが、きっといるに違いない。
そういう人のことを思うとき、「やらない後悔よりやる後悔」などという言葉は、あまりにも無責任すぎるんじゃあないか?なんてことを考えたりもする。常套句に文句をつけても、得るものはなにもないのはわかっているけれど。
幸いにして自分は、心が壊れてしまうほどの傷を受けたことは無い。たぶん、無い。
もしかしたら、部分的に壊れている、という可能性もゼロとは言い切れないが、もしそうだとして、自分自身でそれを知る方法があるのだろうか。壊れた検査装置で壊れた機械を識別することが、果たして可能なのだろうか?
そう考えると、なんだか空恐ろしい。