言葉が持つ自律性について

 とある賢人が言っていた。「言葉を信じてはいけない」、と。そのとおりだと思う。

 言葉には、自律性がある。そしてその自律性が、気づかぬ内に人間を動かしている。


 例えばある男が「いい女」のことを思い浮かべたとする。次にその男が「いい女を抱きたい」と思ったとする。

 ……どうしてこんな下品な例を思い浮かべてしまったのか、自分でもよくわからないが話を続ける。

 このような状況を指して、「ある男がいい女を抱きたいと思った」と形容するのは、至極当然のことのように思える。

 しかし本当に、それは当然のことなのだろうか。

 「いい女」という言葉には、既に「抱きたい」という価値判断が、あらかじめ内包されているのではないだろうか。

 そしてその男が、内包された価値判断に気づかずに、「いい女を抱きたい」と考えてしまった場合、それは本当にその男の考えであると言えるのだろうか。

 むしろ言葉の自律性によって操られている、と言えるのではないか。


 というのが、ぼくの考える「言葉の自律性」の問題。

 ここで注意していただきたいのは、僕は決して「人間の欲望は全て言葉によってもたらされたものだ」というようなことを言いたいわけではない、ということ。

 人間は、性欲というものを持っている。そしてそれは、言葉とは別の部分でもちゃんと成り立っている。このことは、おそらく間違いない。

 しかしそれと同時に、言葉によって欲望が、否応なく振り回されてしまっていたり、枷をはめられていたりすることがあるのではないか。


 欲望について言うなら、「言葉が持つ自律性」ではなく、「社会的な通念」の問題なのではないか、という考えかたの方が普通かもしれない。

 つまり、「いい女=抱きたい」というのは多くの人が持つ共通認識であり、社会通念であって、それが個人の行動を規定している、と説明したほうが、話はスッキリする。

 でも僕は、あえてそれを、言葉の自律性の問題として捉えたい。そっちの方が、実は重要な問題なのではないかと感じる。というか、そっちの方が僕の感性に合っている、というか。