「無の境地」的なものへのあこがれについて。

 マンガとかでよくある「無の境地」みたいなものに対して、昔からちょっとしたあこがれみたいなものを抱いている自分がいる。正直に言うと。

 自我が消えれば、苦しみが無くなる。自我が消えれば、自然とやるべきことがわかる。みたいな。

 あくまでぼくの解釈だけれど、仏教とかキリスト教みたいな宗教が目指しているのは、一言で言ってしまえば全て「無の境地」なのではないか、という気がする。

 具体的な「無の境地」に対するアプローチはいろいろあって、キリスト教なら神への帰依によって、仏教なら修行によって、それぞれ「無の境地」へと達しましょう、というスタンスなのではないか。

 そもそも自我とはなんなのか、と考えてみると、それは「自分の肉体をコントロールしている精神的な主体」のことなのではないかと思う。

 でも実際は自我というのはあくまで仮想的、便宜的なものであり、実態として、あるいは物体的なものとしての自我は存在しないのではないかと思う。

 人間の体は、本当は単なる条件反射の積み重ねによって動いているだけであって、単一のコントロール器官みたいなものは存在しないんだけど、それではいろいろと不都合が生じるので、あえて自我によって全部コントロールしてますよ、という振りをしてるんじゃないだろうか。

 ではなぜ「無の境地」のようなものによって自我を消す必要があるのかというと、それは「自我によって私という全体を統御している」というシステムモデルでは、どうやっても対応できないような事態が、人生にはあるからなのかもしれない。

 普段はパンツを履いて暮らしているけど、お風呂に入るときは脱がなきゃダメだよね、的な。


 みたいなことをつらつらと考えたりするのだけれど、いったいどうすれば「無の境地」に至ることができるのか、そもそもそんな境地が存在するのか、どうもぼくはマンガの読みすぎなんじゃないか、みたいな感じに結局はなってしまう。だってぼく、ただの凡人だし。

 あと、もしかすると「自我を捨てたい」というのは全ての人間の根本的な欲望のひとつであって、そこにつけこむのがカルト宗教とかのやり方なのかもしれない、みたいなことも考える。そう考えると恐ろしい。

 やはり普通にお金を稼いでゲームとかをやって生きるほうが安全なのかな、と凡人のぼくは思うわけだけれど、うまくいかないこととかがあると、無、が頭をもたげてきたりして、ん、どうなんかな、なんて思って、それで生きていたりする。そんな日々。