美人にまつわる雑考。

 男は、女の外見を好きになるのか。それとも、内面を好きになるのか。

 いや、今読んでる本に、そういう話題が出てきたから、ちょっと考えてみたくなったのよ。いや、いっつもそんな本ばっかり読んでるわけじゃないからね?ほんとだよ。言い訳するほど怪しくなるこの感じ。


 あえて言うまでもなく、男性が女性を女性的に見る場合、見た目というのは重要なファクターである。そもそも「内面」などという、目に見えない物を持ちだしている時点で、そこになにかしらの欺瞞が介在していることは明白である。

 だいたい、外見がどうでもいいんだったら、おじさんでもおばさんでも犬でも虫でも、内面が良ければそれでオッケー、という話にならなければおかしい。そうならないのは、相手が「女性の肉体」という外見を持った生物を選んでいるからだ。極論すぎるだろうか?


 多くの男性は「外見も内面もひっくるめた全体を好きなんだよ!」と考えている。というか、考えたいと思っている。

 それに対して女性が「やっぱり私の体目当てだったのね!?」的なことを言うので、しかたなく男性が「いや、内面も好きだよ」と言わされる。

 なんとなくそんな情景が、頭に浮かんでくる。

 そんなとき男は、「確かにオレは男として女を求めているが、それはそれとして、オマエという生き物が好きなんだよ」というような気持ちに引き裂かれていて、だから自信なさげにもごもごと「そ、そんなことないよ」みたいなことを言うしかないのである。いや、想像だけど。


 実は、男性もまた、その多くが、初めて恋をした時に「オレはあの子の外見が好きになったのか?それとも内面?」みたいなことで悩んでいる。ひとり悶々と布団の中で悩んでいる。微笑ましいですね。すこし笑ってやってください。ふふふ。

 僕の場合、ある日ある時、ある結論に達した。というか、とりあえずこの結論で行こう、ということに決めた。

 「外見でも、内面でも、どっちでもいいじゃん」、と。

 キッカケが外見であれ内面であれ、その人といい関係を築けて、お互いにいい感じになれるならば、結果的にはそれでいいんじゃないかな、と。

 僕は間違っているのだろうか。外見から女の人を好きになることは、有無を言わさず、即ち悪、なのだろうか。斎藤一に斬(ざん)されるのだろうか。


 それにしても、美しさって、いったいなんなんだろう。それ自体では何の役にも立たないのにも関わらず、みんなが美しさを求めて右往左往している(というのも、実は今読んでいる本に書いてある話だったりする。もうバラしちゃうけど穂村弘と角田光代が共著の『異性』という本)。

 美しい人を見た時の、あのうっとりする感じ。あの抗いがたい感じはなんなのか。美人だからといって、顔面で薪に火を起こせるわけではないし、ビール瓶の栓を抜けるわけでもないというのに。

 たくさんの人の顔写真をコンピューターで合成すると、美人(男の場合は美男子)の顔になる、という話を聞いたことがある。

 美人の顔が、あらゆる人の平均の顔に近い、ということは、遺伝子的にもあらゆる人の平均に近い、のかもしれない。

 遺伝子的に平均に近いということは、子孫を残す上で有利なわけで、だから人間の遺伝子には、美人が魅力的に見えるようなプログラムがあらかじめインプットされているのかもしれない。

 美人。いいなぁ。美人を眺めていたいなぁ。美人と会話が弾んだりしたら、最高に楽しいに違いない。ちなみにそーいうサービスを提供しているお店のことを、一般的に「キャバクラ」と呼びます。知ってましたか?

 いいなぁ。美人になって男どもにちやほやされたいなぁ。いや、わかってるよ。美人には美人の苦労があるってことは。外見ばっかりで中身を見てくれない、とかね。あ、話がループした。

 美人をちやほやすることは、そうでない人に対する悪なのだろうか。やっぱり斬されちゃうんだろうか。それでも美人に惹かれることはやめられないんだろうな。これぞ業。


 無条件で美人に惹かれてしまう自分。いや、もっと正直に言えば、いい感じの女性全般に惹かれてしまう自分。そんな自分を抱えて、どうやって生きていけばいいだろう。いや、よく考えたら、みんなそんな自分を抱えて生きてるんだよな。はー。

 甘えたことを言うようだが、なるべくなら公正に生きたいと思う。人を傷つけずに生きたいと思う。でも、生まれながらにして人間は、不公平さを、つまり業を抱えている。そのせいで、この世に不公平をもたらしてしまう。

 今後は死ぬまで公正に生きます、と誓うことはできない。かと言って、生まれつきなんだからしょうがないじゃん、と開き直ることもできない。

 辛いなぁ。