ファッションで生きる苦しみ

ファッション〇〇という言葉。決して良い意味では使われない。具体例を書こうと思ったが、あまり上品な例が浮かばないので止める。

翻って、自分の中にどれほどファッション要素があるだろう。
学生時代、洋楽ばかり聞いていたのもファッションだった。
いや、当時から自覚はあった。むしろありまくった。
ただ家の中に洋楽のCDがあって、それがなんかJPOPよりかっこよかったから聴いてただけで、鼻にかけていたわけでも、かしこぶっているわけでもなかった。
しかし「中二病」という言葉のせいもあり、いつもなんとなく気恥ずかしかった。
俺は別に尖っていたわけじゃないんだよ。みんながミスチル聴いてるのと同じ感覚で、レッチリ聴いてるだけなんだよと、誰に対してでもなく大声で叫びたいような気持ちにかられる。今も昔も。世代がバレる。
そこで「ミスチル良いよね」と言ってレッチリのことなどおくびにも出さず、自分の趣味をひた隠す。それが社交性というものなんだろうか。それが世間の渡り方なんだろうか。それもひとつのやり方だろう。

俺はレッチリ聴いてるけど全然気取ってないよ、という雰囲気をごく自然に発する。そういう人間になるやり方もあっただろう。
でもそれは極めて難しい。その種のフランクさを自然に醸し出せる人間は、きっと最初から人気者だ。人間関係の勝者だ。
それが出来ない自分は自意識に苛まれながら、重い足を引きずって歩くしかなかった。

ただのゲーマーになった今の自分の中にも「ファッション」は残り続けている。
なんとなく良いから海外のインディーズゲームを漁る。
なんとなくカッコいいから格ゲーのキャラを見た目で選ぶ。
ゲームは誰に気兼ねする必要もないのだが、今でもあの頃の苦しみを、自意識の疼きを、胸に感じるときがある。

Californication

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