2022年9月30日

現実は情報が多すぎる。脳が処理しきれない。いや、多分脳のほうが疲れている。むしろ確実にそっち。整理しよう。
とあるグループのライブイベントが明日からある。それの情報が気になっている。というのがひとつ。
グラブルに新武器と新キャラ。メインブログに書かないとなぁ。というのがひとつ。
日常のトレーニングに四股をまた取り入れた。いい感じかもしれない。
シャーロック・ホームズの冒険「花婿失踪事件」を読んだ。
原神がやってもやっても進まない。クエストが多すぎる。
そんなようなひとつひとつが積み重なって混乱している。落ち着こう。


落ち着かないのは最近格闘ゲームをちょっとだけ再開したからでは? という仮説。なんでも格闘ゲームのせいにしがちな最近の自分。
オンライン対戦すると疲れて体調が悪くなる。だから三ヶ月ほど完全に止めていた。その間、体調は比較的良かった。
しかし数日前に2日ほど、ちょっと再開してしまった。それからはやっていないが、どうも生活が不安定。不眠。頭痛。情緒の乱れ。
人間はある部分において興奮を求めている。エキサイトしたいという欲求がある。何に興奮するかは人それぞれ。スポーツ観戦。あるいは実際にスポーツをやる。ライブを見に行く。あるいはカラオケで歌う。飲み屋で仲間と騒ぐ。などなど。
自分の場合はそれが格闘ゲームのオンライン対戦である。
興奮の作用は、日常で溜まる緊張やストレスの解放、嫌なことの忘却、といったところか。
しかし過度の興奮は人を疲弊させる。おそらく興奮している最中は、アドレナリンだかホルモンだかなんだかの成分が脳内で分泌されているおかげで快楽を得ているのだろうけれど、その反動は後からやってくる。
じゃあなるべく興奮せぬよう、波風立たない生活をすべきなのか? というと、それは難しい問題。
様々な宗教が慎ましやかな暮らしを推奨するのは、健康的な生活をするためだろうか? もしかしたら、興奮すると秩序が乱れて宗教によるコントロールが効かなくなるから、という支配側の論理が働いている可能性もある。
興奮は人生におけるガス抜き、スパイスであって、それがあるから人生が上手く回るのだ、という考え方もある。
でもそれも自分はちょっと怪しいと考えている。そういう人は一度でも、興奮のない生活を送ったことがあるのだろうか? 単に興奮して脳内物質を出したいことの言い訳なのではないか? 酒飲みが「飲まなきゃやってられないよ」と言っているのと同じではないか? 別に言い訳すること自体が悪いとは言わないけれども。
というか別に自分は興奮イコール悪という話をしたいわけじゃない。自分の中にある興奮を求める欲求と向き合いたいな、と思っただけで。
武士と禅宗の親和性が高かったことにそのヒントがあるのではないか、などと漠然と考えている。
戦いという究極の興奮をコントロールするために、瞑想や禅問答といった究極の「チル」が必要だったのではないか。なんてことを。
それを自分にどう活かせるか、なんてことはまるで見当がつかないわけだけれど。
ともあれ格闘ゲームはまた当面封印してみて、体調が良くなるかどうか確かめてみたい。