ワナビーの嫌さ 2023年5月31日

昨日数カ月ぶりに走ったせいか意識が朦朧。書店と新古書店へ。足トレ。


短歌。定型詩。あまり好きではない。なぜだろう。
面白いな、とか、上手いな、とか、感じることはある。それは素直に。
でも、詩って、短ければ短いほど、弱肉強食、ウケたもん勝ちの要素が強くなるように感じる。
作品よりも、プロモーションのほうが大事、というか。
それはコピーライターの仕事にも似ているのかもしれない。どんなコピーを書くかよりも、なぜそのコピーが適しているのかを説得力を持って具体的にアピールできることが求められる。それがコピーライターという職業らしい。
大きく言えば、表現の世界なんてそんなもんなんだろう。村上春樹はそのような事態を「切った張ったの世界」と書いていた。
何者かになりたいという気持ち。そういうのがなんか嫌。
自分の中にもあるよ。そりゃ。ありまくる。
でもそういうのを否定したい、それはもう全力で。ワナビーの逆を行きたい気分が自分の中にはある。理由は全然わからない。


と、まず自分の思うことをそのまま書いてから、それを客観視してみると、他人のやっていることを「ワナビー」といって切り捨てるのは傲慢じゃないか。
誰だって自分の目指したいものを目指して生きているんだから。知らないのに勝手に決めつけているだけで、本当は自分と変わりないのかもしれない。


と、自分を振り返ってみた上で、改めてワナビーの何が嫌なのかを改めて考えてみる。
ワナビーは他人を見下している。何者かになろうとしないタイプの人を。そのように感じられる。
なんか前に書いたことと話が似てきたな。
rhbiyori.hatenablog.com
他人から抜きん出て特別になろうとする人は、他人を精神的踏み台にする。それが嫌さを与えてくる。
ある種の人は、その嫌さを感じないために、特別になるのかも知れない。感じる側でなく、感じさせる側になるために。
俺はそれが嫌なんだな。そういう場所、そういう磁場にいたくもないし、関わりたくもない。
生命を全うする。真っ当に生きる。その姿が他の人に特別な意味をもたらす。そのようなあり方にこそ憧れる。否定性の介在無しに。でも否定性を否定することは、否定性になるのか?


そもそもそれは社会を知らないアマちゃんの考え方であって、描きたいことを描いてウケたいと思っているマンガ家みたいじゃないか、と思う。自分でも。
一流は自分のやりたいことを認めさせる。二流は人にウケることをやる。三流はなにをやってもウケない。四流はなにもしない。そういうことなのか。
こんなことを考えるのに時間を使ってしまう自分も立派な四流なのかなって。はぁ。はぁって言うゲーム。スト6まであと1日。