言葉が無い世界

 突然、おかしな世界にいることに気づいた。

 僕の姿が、誰にも見えない。僕の声が、誰にも聞こえない。そして誰の声も、僕に聞こえない。それ以外は、完全に元と同じ世界に。

 物音は聞こえる。でも人の声だけが聞こえない。そして僕以外の人同士は普通に会話しているらしい。

 正確に言えば、世界が変わったのか、あるいは僕ひとりがおかしくなったのか、どちらなのかさえよくわからない。でもその違いには大した意味は無いだろう。問題は、姿と言葉の断絶なのだから。

 どうしてこんなことになったのか。どうしてこんな世界になったのか。僕にはまるで見当がつかない。気がついたらこうなっていた。

 生きる事はできる。食べ物はいくらでもある。でもただ生きてるだけだ。言葉が無い世界では。

 いろいろなことを試してみた。いろいろな場所に行ってみた。でも世界を元に戻す方法は見つからなかった。だから諦めて、ただ生きることにしている。

 だんだん悲しいとか辛いとかいう感情も薄れてきた。言葉が無くなれば、やがて感情もなくなるのかもしれない。残るのは、動物的な本能だけだ。

 今はまだ、光があり、水があり、雲があることはわかる。でもこの先どうなるかはわからない。

 この事態は、誰かがもたらしたものなのかもしれない。この世界は、誰かが作ったものなのかもしれない。なんとなく、そんな気がする。

 もしも世界が元に戻ったら、鳩を飛ばそうと思う。白い鳩を、三匹ほど。その日を待ちわびることだけが、今の生きがいだ。変だな、さっきは諦めてるって言ったのに。

ニセモノかもしれないけれど。

 くだらないことを書いたらいけないんだろうか。僕は一生悩み続けなければいけないんだろうか。悩む前にやらなきゃいけないことがあるんだろうか。くだらないことを書くくらいならなにも書かないほうがマシなんだろうか。よくわからない。なにもかもわからない。

 人生は上手くいかないことばかりなのだから、色々なことを我慢しなければならない。消えてしまったものは二度と元には戻らない。失ったものは二度と手に入らない。それでも生きていかなければならない。

 そして人は、いつしか失ったことに慣れてしまう。寂しい話だね、現金なもんだね、なんて言っていても、そういうことになっているのだからしかたない。

 そんな人生でも、もしかしたら、また新しい何かを得られるかもしれない、という希望があれば、なんとかやっていけるものだったりする。失ったものは戻らないが、枯れ果てた大地に、また新しい命が生まれるかもしれない、みたいな希望。

 ニセモノかもしれないけれど、幻かもしれないけれど、それでも希望は人を生かしてくれる、ということを歌っているのが、スピッツなのではないかと思う。またスピッツかよ、と思ったアナタ。とても正しい。


スピッツ / チェリー - YouTube

 「愛してるの響きだけで強くなれる気がしたよ」とか「きっと今は自由に空も飛べるはず」とか、スピッツの歌詞には未来の可能性を歌ったものが多い。これが「愛してるの響きだけで強くなれる」だったり「今は自由に空も飛べる」だと、意味合いがかなり変わってくるのではないだろうか。同時に、希望の方向がダークな方面にも行きかねないのが、スピッツの奥深さでもあるのだけれど。


 あぁ、また愚痴みたいなこと言ってる。また青臭いこと言ってる。まぁ実際にここにこういう自分がいるんだから、しかたないよね、って開き直れるほど強い人間ではないです。

靴だけに。

 暑い。暑いので枕元に水筒を置いて寝ている。ついに横になったまま水筒の水を飲めるようになった。やったぜ。

 みんなが一斉にエアコン使うのやめて、アスファルトを全部森にすれば、だいぶ気温が下がるんじゃないかという気がするけどどうなんだろう。

 でも地球規模で温暖化してるって話も聞くしな。よくわかんないけど。

 オムライスにチキンライスが入っているのはなぜなのか。最初に決めたのは誰なのか。卵を載せただけでオムライスを名乗るのは許されることなのか。そんなことを考えながらオムライスを食べた。昼に。

 やたらと歩くので、そろそろ運動用のスニーカーを買おうかと思っている。おしゃれ用とは別に。おしゃれする機会なんてないけど。

 靴屋の店員と話すのが苦痛だ。靴だけに。靴だけに。靴だけに。三回言ってみました。

 特に、まったく心のこもっていないマニュアル口調を早口でまくしたてる店員が嫌いだ。生命力が損なわれる感じがする。

 でも最近はそういうのもあまり気にならなくなってきた。別にいいじゃん、一生懸命やってるんだから、って。

 僕自身、言葉をデリケートに扱うことが偉いことだと思っている節が、少なからずある。それでデリケートぶろうとしている。それで得することはなにひとつない。

 言葉を雑に扱ったからといって、天誅が下ったり、神罰が顕現するわけでもない。なんで僕は言葉にこだわるのか。

 一種の「ふぇてぃしずむ」のようなものだと言ってしまえば、それまでなんだろうけども。

よっぽど人に。

 生きる。役に立ってるのか立ってないのか自分でもよくわからないことをやって生きる。少ない報酬を頂いて生きる。

 誰かのことを思う。素敵な人に近づきたいと思う。自分には無いものを持っている人に憧れる。

 自分は価値のある人間か、そうでないのか。そういうことはあまり考えないようにしている。考えたら暗くなるだけだからだ。

 どうして僕は、色々なことを回避する人間になってしまったのか。全ては過去の経験が原因なのか、と思っていたけれど、そうとも言い切れないのかもしれない、と最近では思う。

 僕の中に生まれつき、そういう傾向になりやすい要素が含まれていて、その要素が、過去の経験によってあらわになってきたのではないか。ある種の病気みたいに。

 経験が100%ではないし、生まれつきが100%でもない。その中間あたりに、ほんとうのところがあるのかもしれない。


 父親とは同じ家に住んでいるが、もう10年以上会話をしていない。母と家庭内別居状態なせいもあるだろうが、そもそも家族とコミュニケーションをとろうとしない。

 どうも酒に酔うと性格が変わるらしく、つい最近、錦織圭のテニスの試合が見られなかったことが原因で、怒ってテレビにリモコンを投げつけて画面を割ってしまった。でも家族に手を上げたことは一度もない。

 小学校低学年以降から、父との良い思い出が全く無い。最近になって、こーいうのも広い意味でのネグレクトに当たるのではないか、と思い始めているがどうなんだろう。


 辛い時も、辛くない時も、なるべく毎日歩くようにしている。まっすぐ前を見ながらずんずん歩くと、パソコン作業で凝った首にも効くのだけれど、すぐにそのことを忘れてしまう。

 歩きながらPodcastを聴くことが多い。「たまむすび」は博多大吉やピエール瀧が面白い。「TENGA茶屋」でケンコバの下ネタトークを聴いて参考にしているが、間違った方向に知識がつきそうで怖い。

 昔は「さよなら絶望放送」を録音して聴いていた。トータルで200回以上ある放送を、通しで3回くらい聴いた。今でもラジオネーム(絶望ネーム)を色々覚えている。

 実況プレイ動画「モンハンどうでしょう」の音声だけを抽出してiPodに入れて聴いていたこともある。よっぽど時間が余っていたし、よっぽど人に飢えていたのだろう。

バカっぽいことを言っている。

 風が通るように玄関のドアを開けていたら、夜中だというのに蝉が入ってきた。暴れる蝉を逃がすのに一悶着あった。

 なんの話をしようと思っていたのだろう。わからなくなってしまった。


 例えば、好きだと思う人がいて、好きだからそばにいたいと思う。そういうシンプルな気持ちがあるとする。

 でもこの世界には様々な複雑な事情があって、シンプルな気持ちだけではなかなかうまくいかない。

 そういうときに、シンプルなことを言うと、ものすごいバカだと思われる。廃棄物の無害化に何十万年もかかるから原発反対とか、人を殺したくないから戦争反対とか言うと、半人前のお坊ちゃんの無知のお花畑だと思われて、まともに話を聞いてもらえなくなる。

 バカにされることは、まぁしかたないのかな、と思えなくもない。

 でも実際のところ、人間を動かしているのは結構単純な動機であって、世の中が複雑に見えるのは、複数の単純な動機がごちゃごちゃに入り混じっているからに過ぎないのかもしれない。

 だからシンプルな思いをバカにする人は、世の中の本当の仕組みを見落としてしまう危険があると思う。


 こんな話をする予定じゃなかったんだけど。


 どうして男は、女の人を好きになるのか。いや、正確に言おう。どうして僕は女の人が好きなのか。

 電車で隣にいる女の人を、綺麗だとか綺麗じゃないとか、何歳くらいだとか、結婚してそうだとか、瞬時に判別しようとしてしまうのはなぜだろう。

 女の人を好きになるのと、人を好きになるのは、全然違うことなのか?

 うーん、またバカっぽいことを言っている。

 いいじゃないか別に。女性として好きだけど人として嫌いだとか、女性として嫌いだけど人としては好きだとか、女性として好きだし人としても好きだとか、いろんな人といろんな関係があって、それぞれにそれぞれの対応をしていけば。

 でも「女性」と「人」を独立して考えること自体、間違っている気がする。

 その人の女性性とか男性性とか人間性とか、その他諸々を含めた全体を見て、好きになったり嫌いになったりしているのかもしれない。

 でもそうやって、なにもかも一緒くたにして考えることもまた、ことの本質を見えにくくしてしまうような気がする。どっちなんだい。

 まぁどっちにしても、僕らは(少なくとも僕は)、好きになったり嫌いになったりすることを自由に選べるわけじゃないんだから、ぐだぐだ悩んだってムダなのかもしれない。なんで最近コイバナみたいなことばっか書いてんだろう。自分でもよくわかりません。

生きてさえいれば。


ブルーハーツ 人にやさしく - YouTube

 言葉を自在に操っているつもりになっていると、必ずしっぺ返しをくらう。どうやれば言葉の死角に回り込めるか。どうすれば言葉を出し抜くことができるか。常に注意を怠ってはいけない。

 なにかを目指してがんばっても、大抵思い通りにはならない。でもそのがんばる途中で、なにか別のものが見つかることもある。頂上を目指して歩いているときに、ふと足元に咲いた花に心を奪われる。それだけで充分なのかもしれない。

 苦しみとは、現実が、脳の作った理想とズレていることによって生じる。いくら現実を変えようとしても、脳内の理想はわがままに姿を変え続けて、とどまることがない。完全に満足しきることは、決してない。

 もしも完全に満足してしまったら、理想を追いかけようという意欲もゼロになってしまう。だからといって、遠すぎる理想を追いかけ大きすぎる苦痛を抱えて生きるのが幸せとも言えないだろう。

 ままならない現実を受け入れることには慣れている。頭もよくない。顔もよくない。運動もできない。そういうところからスタートしているのだから。

 すべての人を救うことはできない。ひとりの人を救うことさえできない。善だけを為そうとしていたら、一歩も動けない。

 生きるしかない。生きて、感じて、考えるしかない。すべてのことは、なるようにしかならない。生きてさえいれば、心踊る瞬間や、心安らぐ瞬間があるはずだ。それで充分だと思うしかないのかもしれない。

 なんかお坊さんみたいなことを言ってるなぁ。きっと今日読んだ本の影響です。

「独り占めしたい」も、「慈しみたい」も。

 君が元気でいたらいい、なんて。君に降りかかる苦しみが、少しでも少なければいい、なんて。そんな能天気なことしか考えられない僕ってなんなんだろう。

 最近は、特に意識しなくてもブログ(このブログじゃない方)が書けるようになってきている。自然にネタ集めしている自分がいる。あるいは自分がやったことの中から、無理なく書くべきことを見つけることができている。内容はさておき。

 もし僕のやっていることが根本的に間違っていたとしても、その間違いを指摘してくれる人は誰もいない。当たり前だ。誰にも教えてないんだから。

 教えて、間違っていると言われたらどうしよう、今の自分にはこれしかやりたいことが無いのに、って。先のことはわからないけど。

 僕の中には、なにかを全部独り占めしたい僕がいて、同時に、なにかをとことん慈しみたい僕もいる。いろんな自分がいて、どれが本当の僕というわけでもない。どちらも僕の欲望であることは間違いない。

 そういう自分の中でのバランスをとろうとするから、いろんなことに無理が出てくる。無理なく生きられている人は、そもそもバランスをとろうなんて思ってないんじゃないかという気がする。

 誰かひとりのことばかり考えていられるのは、確かに僕が暇だからかもしれない。だとしたら、僕の考えていることなんて、なんの意味もないことなのかもしれない。

 本当は僕はなにかを考えたいだけで、考える内容なんてどうでもいいのかもしれない。食べられるならなんでも食べるのかもしれない。

 どんな形であれ、誰かをどうにかしようとするのは、間違ったことなんじゃないかって気がしている。そういう気分になっている。

 「独り占めしたい」も、「慈しみたい」も、両方同じくらいダメなんじゃないかって感じがする。

 なにを言っても嘆き悲しまれるし、なにも言わなくても嘆き悲しまれるとしたら、僕はなにを言えばいいんだろう。笑ってさえくれるなら、なんだっていいと思ってるんだけど。思ったってなんの役にも立たないんだけどね。