ネットの村上春樹批判に対する愚痴

 うっかりはてなブックマークをつけてしまい、うっかりはてなスターを貰ってしまう。こんなことを続けてしまうと、また余計な面倒ごとに巻き込まれそうなので、なるべくやりたくないのだが、赤の他人に気軽にコメントをつけるのはどうにも楽しい。困ったことである。
 それはいいとして、村上春樹の話がはてブのごく一部をにぎわせている。村上春樹の本を、翻訳とエッセイ以外は大体全部読んでいる僕としては、どうしても気になってしまうのである。
 って書いてるそばから文体が村上春樹化してね?いや、別にわざとじゃないんよ?ただまぁ、現在進行形で村上春樹訳の「ロング・グッドバイ」を読んでいるのも影響してるかもしれない。
 もういい。つか、いちいち文体を気にしていたらおちおちブログも書けんよ。なので気にしないことにする。


 村上春樹が批判される。主にネットで。なんでそんなことが起こるのか?
 もちろん、やたらと売れていて人目につきやすく、人気があるので安心して叩ける、という構図があるのは間違いないだろう。有名税、という、あんましお行儀の良くない言葉があるが、要するにそういうことだ。
 しかし、村上春樹が叩かれるのは今に始まった事ではない。かつて「ノルウェイの森」が大ヒットになった時期、批評家と呼ばれる類の人がこぞって村上春樹をバッシングした。直後に村上春樹が海外にわたったのも、このバッシングが遠因と言われる。
 批評家はみな一様に、「こんなものは文学ではない」という表現で村上春樹を批判した、らしい。人物が薄っぺらい。英米の文学を真似ただけで中身が無い。男の妄想を具現化しただけ。
 批判の内容は、今も昔も似通っている。ただ、文学というものの権威がすっかり失墜した今では、文学側からの風当たりはそれほど強くなくなってきているように見える。残ったフレーズは「こんな小説が売れるのはおかしい」である。このフレーズが、今では村上春樹批判の主流になっているのではなかろうか。


 実際のところ、村上春樹に対する批判は、部分だけで言えば大いに的を射ていると思う。
 「人物が薄っぺらい」と言われるが、作者本人が「僕の小説は登場人物のセリフが非現実的だ」というようなことを言っている。個人的には、小説に登場するセリフにリアリティを求めること自体ナンセンスだと思っているが。
 「都合良くセックスばかり」しているという批判に関しては、実際その通りだからしかたない。いいじゃん、セックス。みんなだってセックスしたいでしょ?。
 Amazonのレビューを見ると、「主人公に共感できない」という意見が多いが、共感ってそんなに大事ですか?そんなに共感したいなら、「あるあるネタ」でも見てればいいんじゃないですかね?
 あと、「村上春樹ライトノベルだ」とか言う人もいるけど、それって褒めてんの?貶してんの?よくわかんないんだけど。なんか、自分の持っているものさしだけで全ての物事を判断できると思っているみたいに見えて、すごくキモいんだけど。


 と、無駄にアツくなってしまった。イカンイカン。
 思うに、そういう細かい批判と言うのは単なる揚げ足取りであって、それがAmazonに長文で批判レビューを書く動機足り得るとは考えにくい。
 多分、彼らは「こんな小説を読んでいるのは、この小説の登場人物みたいに日夜ズッコンバッコンやってるやつらであって、そんなやつらの自己憐憫に上手く訴えかけているから売れているだけなのだ。私はそういう奴らが憎い。だから叩く。堂々と叩く。ネットで。匿名で。」と考えて、実際にそうしているのではないか、というのは僕の完全な想像である。
 その想像が当たっているとすれば、彼らの想像力は完全に不足しているとしか言えない。逆に、僕の想像が間違っているとすれば、それは僕の想像力不足である。想像だけでは話を進めたせいで、わけがわからなくなってしまった。


 なんだか愚痴っぽくなってしまった。っていうか、全編愚痴に近い。コレはいけない。やっていることが、村上春樹を批判している人とほとんど一緒である。まぁ、Amazonレビューと違って、多分誰も読まないだろうし、いっか。

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