ちょっと嫌なことがあったせいで、ブログを書く気が起こらない。
文章を書くこと自体はむしろはかどっているのだけれど、出てくる言葉はどうしようもないクズみたいなものばかりで、ブログを書く役には立ちそうにない。こういう生のままの言葉は、自分の中にストックしておいて、じっくり熟成させておくことで、ようやく使えるようになるのではないかと思う。
比喩。そう、最近比喩に凝っている。あんまり凝るようなものではないけれど。
比喩には、現実をずらしてくれる効果があるのではないか。そして、小説というものは、一つの巨大で複雑な比喩なのではないか、なんてことを考えたりしている。
自分でも意味はよくわからないが。
そんなことを言ってしまった手前、今すぐここで比喩を使おうと思っても、意識してしまって上手くできない。文章には、自然な流れというものがあるべきだろう。
会田誠のエッセイを読み始めた。いきなり家族の悪口から書いている。しかも客観的に家族の悪い部分を観察し、そのような環境が自分に与えた影響について冷静に分析している。すごい。シビれた。
これからの社会においては、他人からの評価がなによりも価値を持つので、悪口を言わない方がいい、みたいな話がある。こういうのを評価経済と呼ぶのだろうか。よく知らんけど。
でも果たして人間は、悪口を意図して排除するような、ソフィスティケートされた世界だけで生きられるものなのだろうか。もっと猥雑なものを何処かで求めてしまうものなのではないだろうか。人間のそのような性質は、100年や1000年程度では変わらないはずだ。
会田誠のアートは、ただただ猥雑である。なぜあんなに猥雑なのだろう。現代社会への高度な風刺?表現の領域を拡張するため?
いや、おそらく、ただただああいった猥雑なものが好きで、描きたくてしょうがないのではないかと思う。描いているのが自然なのだと思う。あくまで憶測だけれど。
そんな会田誠のアートは、海外の美術館で展示が拒否されたことがあるらしい。そうやって、猥雑なものを排除していけば、世の中はクリーンで住みやすくなるだろうか。いや、多分、むしろ窮屈で生きにくいものになるのではないか。
そうやって美術館から排除して、その次には図書館から排除して、最後にはこの社会から排除する。きっとそのような力が動いている。
僕はなにを言いたいのだろう。
要するに、「猥雑なもの、サイコー!」という気分なのである。やっぱり気持ちが荒んでいるのかもしれない。