傷、痛み、厚生年金。

 素直になる、という戦略は、きっとかなりの程度で有効なのだろう、と常々思っている。自分をさらけ出してしまえば、それだけ強みや武器が増える。もちろん同時に、自分の弱い部分も表にさらさなければならないわけだけど。

 人を傷つけてしまうことがある。人をがっかりさせてしまうことがある。生きている上では、避けられないことだ。でもそれが、自分にとってとても重要な人だった場合。

 「避けられない」などという通り一遍の言葉で済むわけがない。そんなときは、自分自身の体で、それ相応の傷と痛みを受け止めなければならない。リアルでハードな傷と痛みを。

 その傷や痛みも、やがて時が立ち、すべてが過ぎ去ると共に、どこかへ消えてしまう。どこかに救いを求めるとしたら、そのような身も蓋もない真実にすがるしかないのかもしれない。


 うーん、どうも文章がキザになっている。これが今の僕の「素直」なのだろうか?うーむ。うーむ。とりあえず話を続ける。


 傷があろうが痛みがあろうが、人は生活をしていかなければならない。生活。恐ろしい言葉だ。

 「生きる」とは、ただ死がやってくる時刻を遅延させるためだけの行為だ、と定義するのは、悲観的すぎるだろうか。

 あるいはそれは「死なない」ということの定義でしかなく、「生きる」ということの定義は、また別のところにあるのだろうか。

 なんだか、回りくどい言い方で、青春パンクみたいなことを言ってしまっているような気がする。なんだこれは。まぁいい。

 生きるということの中には、本来は、とても雑多なものが含まれている。ビール瓶とか、厚生年金とか、キングギドラとか、インチネジとか、愛とか、ふすまとか、三年前に会った同級生とか、バールのようなものとか、宇宙の起源とか、三段跳びで降りた階段とか、モップの先についたスナック菓子とか、スカートの内側とか、レモンの種とか、伝統工芸とか、希望とか。

 そのような色々なもののことを考えながら、生きるべきなのではないか。それが正しい、とまでは言えないけれど、より「まし」なのではないか。

 傷とか痛みとかにばかりこだわるのは、ただ死を引き伸ばしているのと、同じことなのではないか。そんな気がする。そんな気がした。そんな夜だった。