どうもこの時期は、ひとりでじっくりといろいろなことを考えたくなる。

 いろいろあって、前より少し生活環境が良くなりそう。これでもっと頑張れたらいいんだけど。

 もっと人と関わったほうがいいと思うんだけど、そういうことがもうずっと上手くいっていない。家族以外との関わりがあまりない。

 傷つけたり傷つけられたりするのが怖くて人と関わるのを避けてしまう。それは優しさじゃなくて臆病なだけなんだろう、と、どこかで誰かが言いそうなことを考えてしまう。

 自分を卑下し過ぎるのもよくない。誰もが弱さを抱えているのだから、自分のペースで少しずつでも進んでいけばいい。なんて。

 求めるものが全て得られることなんてあり得ない。持っているものを使うことを考えた方がいい。

 どうも抽象的なことばかり考えてしまうな。

 ブログを書くということ、文章を書くということはどんな意味を持っているのだろう。

 場合による、としか言いようがない。

 僕はこの言葉を誰に届けようとしているのだろう。宛先の無い手紙なのだろうか。

 自分は何者なのだろう。観念的なことだけでは、それは伝わらない。

 どうやって生きていけばいいだろう。お金で買えないものもある。でもお金は生きるのに必要だ。

 時々不安になる。自分は、あるいは世界は、これで大丈夫なんだろうかと。

 確かなことはなにもない。だから積み重ねていかなければならない。目に見えるものや、見えないものを。

 だから運動をしたりする。筋をほぐしたり、心肺に負荷をかけたりする。人間は肉体であり、精神もまた肉体である、と見ることもできる。唯物論。

 こうして言葉を並べていくと、論点が少しずつずれていく。当初の問題は少しずつ遠ざかる。解決するわけじゃないけど。そういうやり方を、僕は読書で学んだんだのかもしれない。

 ずっと同じところでぐるぐると回り続けるのはどんなに苦しいだろう。僕はそれが愚かなことだとは到底思えない。そんな苦しみこそ救われるべきなんじゃないのか。

 大事なものが欲しいのか、それとも欲しいから大事なのか。

 言葉が、思考が縛られるのが、なによりも怖い。でもあらゆるものから自由にものを考えることなんて誰にもできない。

 誰かとわかりあいたい。でも自分の弱いところを知られるのは嫌だし、そこを突かれるのはとても辛い。

 本当は一生懸命生きたい。でもなにに一生懸命になればいいのかわからない。多分ほとんどの人がそうなんだろう。

 誰かが楽しそうに話すのをずっと聞いていたい。楽しそうじゃなくてもいい。そこにほんのわずかでも救いがあれば。たとえ偽物の救いであっても。