普段色々なことを考える。
そして大抵のことは忘れてしまう。どうでもいいことばかりだから。
しかしこうして考えを書き留めることで、文字として定着して、後々まで残る。
すると、後から自分の考えを客観的に見直すことができる。
それがいいことなのか?よくわからない。
友人を求める。異性を求める。家族を求める。他人になにかを求めてしまうのはなぜだろう。
もっと自分の力で生きろよ。もっと自分のアタマで考えろよ。偉い人みたいに。すごい人みたいに。
でもさ、辛いじゃん、自分一人じゃ。わかんないじゃん、自分が合ってるかどうか。不安なんだよ、色々とさ。
あぁ、もっとちゃんとしたことを考えたい。「ライフステージ」とか「投資信託」のこととかを考えたい。大人なんだから。
どうして僕は「軽減税率」とか「量的緩和」のことを考えることができないのか?バカだからか?それとも、なにものかによって、そういうものから遠ざけられているからなのか?
お金の話をするのが大人なのだろう。いい年をして「美味しいビスケット」とか「来月発売されるゲーム」とかの話ばかりしていたってしかたない。
でも、誰が決めたんだ?お金の話をして生き、お金の話をしながら死んでいくことが正しい、と。
何かから目を逸らさせるために、そんな風に考えさせられているのではないか?
相変わらずおかしな事ばかり考えている、僕は。
でも、誰かが考えた素晴らしい考え方よりも、自分で考えたくだらない考え方のほうが、自分自身にとっては重要、というか、注目しなければならないものなんじゃないか。
自分の考えは、自分の症状、であるとも言える。症状に注目したほうが、自分のことがわかる。他人の考えを受け売りし続けるだけでは、いつまでたっても自分自身は変わらない。
自分自身の考えは、突き詰めれば、全て誰かがどこかで考えたことのツギハギにすぎない。でも、そのツギハギの、つまりパッチワークの作り方に、個性が出るのではないか。その個性もまた、自分の症状であり、自分を知るカギになるのではないか。