生きがいがない。生きている価値もないし、意味もない。そうなったのは自分のせいだ。

 いやいや。いかんよ。そうネガティブになっては。

 なんでもいいんだ。ちょっとしたことから始めようぜ。徐々にステップアップしていこうぜ。今から?

 いいじゃないか。友人たちが次々に家庭を持ったり子どもを持ったりしているのを知って、クヨクヨしても。そんなのはよくある話だ。

 ちょっと心がクサクサしているだけだよ。いろんなことをいっぺんに考えすぎて、疲れているんだ。

 絶望が過ぎ去った後には、虚無が広がっている。完全に不毛な虚無が。

 いいじゃないか。虚無。色即是空なんだぜ。全ては空なんだ。より正しい方に近づいている。

 確かなことは何もない。あらゆるものは、一時的な形相に過ぎず、次の瞬間には別のものに移り変わっている。変わらないものなどない。

 無に心を囚われてるな。エクスデスですか?

 そうやってまた僕は、目の前にある問題から目を背けようとしているのか。結構なことだよ。

 自分は弱い人間だけれども、いざとなったら自分を守るだけのズルさは持っている。より救いようが無くなっている感じもするけど。

 自分なりのルールで、自分なりの範囲で、頑張っているふりをして、満足感だけを得て、現実にはなんの影響も及ぼさない。

 そんな生き方が誰かに受け入れられるはずがない。受け入れられたいんだな、俺は。

 孤独であることは、今に始まったことじゃない。ずっとそうだった。ずっと、世界との見えない壁のようなものを感じていた。

 いつからだったろう。その壁が厚くなった気がしたのは。あの夏に感じた無力感だろうか。あの冬に受けた受難だろうか。

 誰かのことを好きな自分を好きになられても困る。でもそれを利用したことが無いとは言えない。それは罪だろうか。

 性的に侵犯される苦しみを知っていますか? 私は知っています。少しだけ。

 だからこの世界が信じられないんだよ。なんて言ったって誰も納得してくれないよな。

 なんてことを書いてストレス解消している自分はやっぱり健全じゃないのだろうか。

 他人を不快にするようなことを書きたくないよね。迷惑はかけたくない。

 でもそれだけじゃ満足できない。心が満たされない。業のようなものだろうか。

 そばにいてくれる人がいるだけマシじゃないかよ、って、また嫉妬している。自分だってそう変わらない。

 多層的なメッセージしか送れない。一本化できない。ビョーキだと思うよ、自分でも。

 あれは一時の気の迷いだった。あれこそが本心だった。今なら上手くやれる。不快にさせるぐらいだったらいなくなった方がマシだ。

 少し考えさせてくれ。いくら考えたって無駄だ。いつかわかる時が来る。もう二度と会えない。

 いろんな思念がやってくる。そりゃ辛いわな。

 もうどうなってもいいし、どうなっても欲しくない。どうにかなってほしい。

 なんだか前向きになれない。自分を好きになれないから、他人と関わろうという気になれない。これは本当のこと。

 誰かを避けてるわけじゃない。誰もかもを避けている。

 夜は明ける。私はまた動き出す。もう終わりにしたい。ここから始めたい。

 久しぶりに日記を書いて寝たら、ずいぶんリアルな夢を見た。内容は書かないけど。

 昔は日記用にノートを枕元に置いていた。今はiPod touchを使っている。便利だ。

 書いたって読み返さないし、読み返したってその日何があったかなんてわからない。そういうのを日記と呼んでいいのかもわからない。

 わざわざノートを用意してまで書いていたということは、それは自分にとって欠くべからざることだったのかもしれない。リアルな夢も見られるし。

 でもそういうのは他人に見せるべきじゃない。他人にとって負担になるから。

 なんて思うのは、自分が本来的にはアナログ世代の人間だからかもしれないけど。

人は誰しも「考えないようにしていること」を心に抱えている。

 座禅のマネごとをする。たまにやると、心が軽くなる、ような気がする。あくまでも、気がする程度だけれど。

 人は誰しも、「考えないようにしていること」を、心に抱えている。

 「それ」について考えてしまうと、自分が自分でなくなってしまう。自分の現実認識に不和が生じてしまう。だから考えないようにして、無かったことにする。精神的な防衛本能によって、無意識に。

 本当は会いたくないんだけど、どうしても会わなければいけないので「自分はあの人に会いたいんだ!」と思い込む。本当は好きなんだけど、相手をしてくれないので「自分はあの人のことが嫌いなんだ」と思い込む。心には、そうやって嫌なことを抑圧する機能が備わっている。

 嫌なことを、無かったことにして、それで全てが丸く収まるかというと、そうはいかない。

 心の中の、見えないところに押し込んだ気持ちは、必ずなんらかの形で、心のどこかに悪影響を及ぼす。歪んだ柱を一本使っただけで、家全体が傾いてしまうように。

 というような議論は、ほとんど古典的な精神分析の受け売りなのだけれども。


 ときには、考えたくないことと向き合うことも必要だと思う。心を鎮めたり、無心になれるような状況を作り出すことで、そういうことをやりやすくなる、ような気がする。あくまでも、仮定の話。

 向き合ったからといって、嫌な現実が変わるわけではない。でも、抑圧が少ないほうが、心のエネルギーを無駄に消耗しなくて済む。ぐっすり眠れるようになる、かもしれない。あくまでも、仮定。

星が降る場所には

 そこがどれほど素晴らしい場所であっても、いずれ立ち去らなければならない時が来る。ものごとには、あるべき場所がある。

 正しいタイミングで立ち去ることが出来なかった。心の準備ができていなかった。いや、キッカケがなかったのだろうか。言い訳じみているな。

 鍵と鍵穴が合わなければ、扉は開かない。水と油は交じり合わない。ニワトリと卵で親子丼。豚肉で作った牛丼は豚丼だ。

 桜は春に咲いて、散る。夏には葉が茂る。重要なのはポイントを外さないことだ。

 光を求めて進んでいるのに、いつまでたっても闇のままだ。もしかしたら光はもう、店じまいをしてしまったのかもしれない。来年の夏の、海開きを待たなければならないのかもしれない。

 光や、臭いや、温度や、色によって、場、というものが生じる。そのことを僕はある寺社で知った。

 場、が変われば、何もかもが変わる。物理法則すらも。光がゆっくり進んだりする。

 人間は、場の一部であり、場もまた、人間の一部である。そのことを忘れてはいけない。たとえば、星が降る場所には星が降る場所の倫理がある、というように。

心臓に杭

 10年間、僕の心臓には杭が刺さっていた。そのことにようやく気づいたのだ。

 一息に抜き取ろうとしたら、ショックで死んでしまうだろう。だから毎日少しずつ引き抜くしかない。

 杭の全体を抜き去るには長い時間がかかるだろう。その前に、僕の命が尽きてしまうかもしれない。

 それでも、その日が来ることを信じて、生きていこうと思う。杭から自由になれる、その日を。

 もしかしたら、抜けた杭が、その後の僕の人生を多いに助けてくれることになるかもしれない。僕の命をこの世に繋ぎ止める杭になってくれるかもしれない。この世界では、色々なことが起こりえるのだから。

ビターだな。

 今まで自分のことを善い人間だと思ってたんじゃないか。意識せずとも。

 もちろんそんなわけはないわけだけども。

 自分の中に、善がいて、悪がいる。

 というよりも、自分が、善になったり、悪になったりする。


 たとえ自分が悪であっても、生きている限りは、生き続けなきゃいけないのだ。

 そういう人の気持ちが、僕にはわからなかった。

 人を傷つけておいて、平然と生きているやつの気持ちが。

 でも僕も同じだ。

 善でもないし、悪でもない。

 あるいは、善でもあるし、悪でもある。

 それでも生きなきゃいけないんだな。

 ビターだな。

世界の果てには

 世界の果てには、無数の死体が転がっている。なんの死体だろう。

 それらは、僕が今までに見捨ててきたものたち、見限ってきたものたちの、成れの果てだ。

 チノパンのポケットに入りっぱなしの予備のボタン。吹かなくなったリコーダー。動かなくなったペットの亀。ダビングした大量のMDカセット。いつか見た景色。いつか聞いた声。いつか過ごした時間。

 世界の果てには、そんなようなものが、どこまでもどこまでも散らばっている。果ての果てまで。

 最後の僕は、世界の果てを、死者たちの間を、さまよい続けるのではないかと思う。終わることなく永遠に。

 そのときまでの命を、限りある命を、今の僕は生きているのかもしれない。あらゆるものを見捨てながら。見限りながら。