2022年9月5日

國分功一郎・千葉雅也 言語が消滅する前にを読みはじめたり。現在Amazonでセール中。
言語が消滅する前に (幻冬舎新書)

セリアで珍しい1.5メートルのMicroUSB-Bケーブルを見つけたのでPS4コントローラー用に買いぬ。古文の知識はデタラメ。


ストレスの溜まることが起こる。結局のところ原因は実入りが少ないこと、でしかない。
なんとかやれることを見つけたところなので、へこんでいる場合ではない。


自分の固有性を見つけ出したいなら、自分の日々の生活と日々の思考を見つめるのが最も手っ取り早いのかもしれない、と感じるようになった。ブログを以前よりも熱心に書くことによって。
今までよりブログを熱心に書くようになったのは、自分の敬愛する作家(ほとんど尊崇しているといっていいかもしれない)が「面白い随筆を書くためには本当のことを書けばいい」と書いていたのを読んだから。


なぜか自分の固有性、通俗的に言えば「自分らしさ」について考えようとすると人は「想像上の自分」を見ようとしてしまう。しかしそれは本当の自分そのものとは程遠い。
自分の頭で作り上げた自分、すなわちそれは自意識であって、実際の自己と自意識には常にズレがある。そのズレが大きい人ほど客観的に見てヤベーやつになる。
その自意識のズレを少なくするためには、自分のやったことや感じたことをただそのまま文章として書くことが役に立つ、のかもしれない。またそれは上記の「本当のことを書くこと」に繋がるのかもしれない。
自分自身の身に起こったこと、行った場所、食った飯、その他諸々を認識すること。それが自意識のズレを起こさない方法であり、自分の固有性を見つめることになるんじゃないかと思う。
逆に本当に自分の身の回りにあるものを見ず、誰かの言葉や誰かの意見を鵜呑みにして自分のものだと思いこんでしまうこと、それが最も自意識のズレを生むのではないだろうか。


ただ生きるだけなら、周りと同じように考え、周りと同じ言葉遣いをし、周りと同じような生き方をすれば、いい。
でもそれができない自分がいる。全然できない自分がいる。
じゃあどうすればいいか? 自分を恃むしかないんじゃないか。
そのためには、他人を原動力にするんじゃなくて、自分を原動力にしなきゃいけないんじゃないか。
実際の自分とはズレのある自意識に振り回されていちゃいけないんじゃないか。
そんなことを思う。


そんなことを思う自分は実際はどうなのかというと、全然そんな風には生きられていない。
水に濡れたトイレットペーパーのようなふにゃふにゃの様相を呈している。
自意識と実際がズレまくったヤベー奴であると言わざるを得ない。せめてそんな自分の考えをブログに書くことしかできない。悲しいからグラブルやろ。そういう人間。