2022年10月12日

オーバーウォッチ1時間やっただけで翌日重めの頭痛。俺は弱い。姿勢に気をつけよう。今日はエイム練習だけにしよう。
対戦ゲームをやるとそれだけ脳のリソースを奪われる。やってないときも自然にゲームのことを考えてしまう。
それでも多少はやった方が脳にはいい気がする。根拠はないけど。セーブしよう。


新しいキーボード情報を教えてくれるGoogleニュース。欲しくなるからやめてくれ。


自分の人生は一度しか無い。一つしか無い。この瞬間は今しかない。唯一性。
科学はそれを見えなくする。再現性のないものの価値を貶める。だからダメだ。
と、ニーチェという人が言ったらしい。
自分にはそれが正しいのかどうか判断はできない。
ただ、なにかを書く上では、唯一性はとても重要だと感じる。
そこにしかないものを、それしかない書き方で。
でもそれは特別な工夫や技術が必要なことではない、と思う。
むしろ努めてそうすると、陳腐になる。
オレは唯一無二の人間だ、という発想は陳腐である。
なぜなら基本的に人は心のどこかで自分は唯一無二だと考えているから。
いや、陳腐というのは言い方が悪いな。
陳腐というのは言い換えれば共感。時代は共感。さらに言い換えれば共感とは「あるある」。
自分がずいぶん背伸びして哲学に惹かれているのは、それが「人生あるある」だから。
哲学というと小難しい概念をこねくり回す学問だと考えている人もいるかもしれないが、実際はこの世界のこと、この現実のこと、それらを深く追い求めるのが哲学。
役に立つかどうかはわからない。でもあらゆる人間になんらかの形で関係している。それが歴史を超えて残っている考え方であるほど。
少し話が逸れました。

誰もが本当は唯一なものである。
でも自分の唯一さを見つめるのはとても怖い。
なぜならそれはとても惨めで恥ずかしいものに見えるから。
他人と違うのは恥ずかしい、という気持ちは誰にでもある。

でも実は、その人の唯一さにこそ、共感への道がある、ような気がする。
他人と違って、恥ずかしい、誰にも見せたくないと思っている部分。
そこに、書くことを良いことにするヒントがあるんじゃないか。
でも「最近ハゲてきて」とかそういう暴露をすればいいわけじゃない。
簡単に書けることは、本当はそんなに恥ずかしいことじゃないから。
ただの事実よりも、それについて考えることや感じることに、唯一性が出る。
そっちの方を書くべきなんじゃないか。
例えばハゲていることにどのような恥ずかしさを感じるか、とか。
自分は書かない。恥ずかしいから。