2022年9月10日

首凝り凝り状態でしばらくダメかもしれない。
毎年秋になると、夏の暑さで血行が良くなってごまかされていたのがダメになる感じがする。


古戦場によって思考が分断される。こんなのもう精神的拷問だよ。と言うのはもちろん冗談だけれど。


格闘ゲームが面白いのはキャラクターの個性が強いこと。あらゆる対戦ゲームの中でも最もキャラの個性が強い部類に入る。
競技としての公平性を目指すのであればキャラ差は必要ない。むしろ無い方がいい。
「オレが考えた最強の戦術」をぶつけ合える。その意味ではトレーディングカードゲームに似ているのかもしれない。
リリース直後の格闘ゲームであるほど、強い戦術が知れ渡っていないので、プレイヤーごとの個性、思想が強く出る。
その意味で、発売したての格闘ゲームには、そこでしか味わえない楽しさがある。
時間が経つほどに対戦環境が煮詰まっていき、強い戦術が確立していき、個性が薄まってしまう。
しかしそれでも「全員同じキャラ・同じ戦術」にはそうそうならないのが格闘ゲームの奥深さ。
プレイヤーの素養によって、キャラの向き不向きがある。状況判断に優れたプレイヤー、コンボ精度が高いプレイヤー、近距離戦もしくは遠距離戦が得意なプレイヤー、それぞれに適したキャラがいる。
スキル的な適性よりも、好みによる適正の方がキャラ選びに大きく影響を与えているのではないかと思う。
強いけど苦手な戦い方をするよりも、弱いけど好きな戦い方をしたほうが、結果的に勝率が上がったりする。
その好き嫌いには、見た目や声といったキャラクター性への好き嫌いも含まれる。
なんか使っててテンションがアガる。それがいわゆる「キャラ愛」の正体。
しかし「このキャラ使うと勝てるからテンションアガる」という事態も往々にしてある。それがキャラ愛にまつわる議論をわかりにくくしている。
ここでいう「愛」は、愛情というより「愛着」という言葉で表すのが最も近いだろう。
だとしても、そこには「愛」というものがはらむパラドックスが顕在化しているような気がする。直感的に。


「キャラが好きだから使う」のがキャラ愛で、「勝てるから使う」のはキャラ愛ではないとされる。なぜか?
それは後者の場合、勝つという目的があり、いわば勝つための道具としてキャラを使っていることになるから。
目的本位であること。道具的に使うこと。それは愛着ではない、と、多くの人は考えている。
逆に言えば、愛とは「それそのもの」が目的でなければならない。
勝つためにキャラを使う人は、勝つことを愛しているのであって、キャラを愛しているわけではない。
誰だって愛されるのは嬉しいし、道具のように使われるのは嫌だ。
だから愛があるのは良いことで、愛を持たずに利用するのは良くないことだ。
議論としてはクリアーだ。


しかし実際のところ人は、ある対象を時に愛したり、時に道具のように使ったりと、状況に応じて様々な扱いをする。
完全な愛は存在しないし、完全な利用もまた存在しない。
だとするならば「このキャラをキャラ愛で使っています」という言明は、常に多かれ少なかれ嘘を含むことになる。
だから愛は難しい。
それでも「キャラ愛です」と言い切るということは、内心はどうであれ、常にキャラ愛があるかのように振る舞うという義務を背負うという宣言となる。
その責任を果たせないのであれば嘘つきになってしまう。あいつはキャラ愛が無いと非難される。
かくも愛は重い。
なんで格ゲーの話からはじめて愛の話になってるんだ??