2022年11月8日

セルフ散髪。バリカンでやったほうが早いのについハサミでやってしまうのは、髪とハサミを触る感覚が気持ちいいからだろう。
そしてへんてこな髪型が出来上がる。人体構造は自分の髪を切るのに向いていない。鏡を凝視して目も疲れる。


個人的に邪悪さを感じる表現がある。音楽。漫画。小説。もちろん例は挙げないけれど。
攻撃的。トキシック。他罰的。過度な単純化。嘘、偽り。
フィクションとしてそういうものを取り扱うことが邪悪だと言いたいわけではない。
むしろ良いフィクションほど悪を活写する。
問題なのは、つくり手が無意識的、あるいは潜在的に悪を肯定している、ように感じられる場合。
というのはあくまで個人の感覚でしかないのだけれど。
だからといって悪いものは滅ぼすべきか、というともちろんそんなに単純な話ではない。
そもそもある表現を「なんか悪を感じるから」という理由で排除することは現実的に不可能である。
なにより表現に善悪二元論を持ち込んでも意味がない。現実に影響を及ぼさない。
ある表現が受け入れられるのは、それが善だからとは限らない。
むしろ悪だからこそ受け入れられることも多い。
そこに表現というものが持つパワー、強みがある。
普通は世の中に受け入れられないような、悪いことでも、上質な表現を用いれば、存在させて受け入れさせることができる。そしてそれは表現の危うさでもある。
ある表現が世間から排除されるようなことがあるが、その表現が悪だからという理由で排除されることは実はあまり無い。
表現が排除されるのは、それが本当のことを表現しすぎているからである場合がほとんどであるようだ。
みなが目を背けたい現実を表現しすぎると、排除される。
逆に「不都合な真実」などと帯に書かれている新書などがあるが、それらは実はなんらタブーを犯しておらず、むしろ多くの人に耳障りの良いことを言っているにすぎない。