2022年8月26日

朝起きる。トーストとグラノーラのヨーグルトかけを食す。木刀振りて体ほぐし、タイピングゲームで指先をほぐすなどする。ほぐしの朝。
扇風機はホコリが溜まると風が弱くなる。キチンと掃除すべし。
多少筋トレをしても体が太くなるばかりで健康を感じられない。膝への負担も増す。しかしガリガリもまた不健康。
もっといい人たちはどんな朝を過ごしているのか。っていうか「もっといい人たち」って何だ??
自分よりももっとすごい人たちも、朝を過ごしている。その朝がすごさを生み出しているのか?
などと小学生みたいなことを考えている己は本当に小学生のよう。


というマヌケなことを書いてしまっているのは、自分の思考をなるべく忠実に文字に起こそうとしているからなんだけれど。
思考は文字ではないので完全に文章にすることはできない。
とりとめのない思考の中から、なんとか一貫性や公共的な部分を見つけ出して、文字にする。それが書くということ。
思考は暴れる魚のように奔放。だからこそ書くことは難しい。
しかしそんな制御不能な思考が、人間の行動を規定している。思考が人を動かす。
そして思考そのものを直接コントロールすることは多分できない。思考はどちらかというと環境への反応だから。
でも文章にして一定程度可視化することはできる。上に書いた通り限界はあるにせよ。
最近日記をよく書くようになったのはそういう意図もあってのこと。


文章を書くことは自分の思考を可視化する手段。
と、書いてみたけれど、実感としてはそうでもなかったりする。
もう前言を翻すの? と思われるかもしれないが、なにせ思いつくままに書いているだけなので、そこは申し訳ない。
あくまでそれは理論。しかも自分が頭の中でこしらえたものに過ぎない。
書いても書いても「自分の思考が顕在化した」とは感じられない。
なぜなら考えたことをそのまま書いてもまるで文章にはならないから。
ただ考えるのではなく、それを頭の中で文章の形に「まとめる」作業をしている感覚がある。
長くブログを書いているので、ブログの記事であれば、かなり自動的に頭の中でまとめる作業が行われる。
メインブログの記事に関しては大体8割くらい頭の中で出来上がったところで書き始める。ゲームとか買ったものとかの感想を書くだけなのであまり複雑なことを考える必要がないから。
もちろん書いているうちに内容が変わっていくことはいくらでもある。むしろそういう時が楽しい。
一方、読んだ本の感想を書くサブブログの方は、もうちょっと一文ずつ頭を捻りながら書いていた。
本を読むと実に様々な感想を抱くが、量が多すぎて頭の中だけでまとめるのが困難。
なのでそれらのたくさんの感想を、それぞれ別個に頭の中に置いたまま書き始め、それらの感想が勝手に出てくるのに任せる。全部の感想を出せるときもあるし、出せないときもある。そういう感覚だった。
最近はめっきり本を読まなくなったので更新頻度はめちゃ低になってるけれども。


そんなような書き方をしているので、自分にとって書くことは「思考の可視化」とは程遠い。
むしろ「思考の文章化」というプロセスを行っている。そこには自動化された部分も含まれていて、むき出しの思考そのものとは程遠い。
今この文章は一文ずつ考えながら書いているが、それとて文章というフォーマットを強く意識しながら思考しているのはまず間違いない。


疲れたので少し休んだ。
書くことは、思考を解読可能なフォーマットに落とし込むこと。ゼラチンを型枠に流し込んでゼリーを作るように。
でも全ての思考が型どおりになるわけではない。型にはまりきらなかったなにかが生じる。
それこそが「むき出しの思考」であり「無意識」である、と簡単に決めつけてしまいたくなるが本当なのか。臆断じゃないか。
むしろそれは、言葉を重ねることによって生じる化学反応のようなものではないか。コントロールできない思考と、言葉が持つ自律性の作用によって。
書くうちに、気がつけばこれまでとは違った景色の場所にたどり着く。ほんの少しだけものの見え方が以前と変わる。そういう瞬間が一番楽しい。
でもただ頭の中で何かを考えているだけではダメで、なにかしらの外側が必要。マッチで火をつけるように、外のものとの摩擦によって言葉は生まれる。言葉が必要になる、と言った方がいいか。
そんな大層なことを言いながら、自分がやっているのはゲームをやったりものを買ったりしたことをブログに書いているだけなのだけれども。
それはまず周りのことか始めるべきだと思ってやってるのであって、自分なりに納得してやっていること。でも他人に誇れるようなことでもないのが辛いよねって。