2022年9月3日

グラブルやって眼精疲労で頭が痛い。いつものごとく。


グラブルのゲーム性はパチンコ・スロット・パチスロ等(以下パチンコ)に似ている。フルオートでドロップ武器を狙っている時などは特に。
と、思う時、自分の中にパチンコへの偏見がある。
ゲーム性そのものに貴賤は無いはず。その周囲のことについてはその限りではないが。
そのことについて考える。
パチンコが長らく生き続けているのはそのギャンブル性に加えて、誰でもプレイできるという簡単さにあるのだろう。多分。パチンコ屋に足を踏み入れたことも無いから予想なのだけれど。
パチンコには、桜井政博氏が提唱するところのいわゆるテレビゲームにおける「ゲーム性」はおそらく無いか、あっても限りなく少ない。すなわち、リスクの高い行動を成功させることで高いリターンを得る、というような駆け引きがない。
他にゲーム性の定義として「複数の選択肢の中からより効率のいい方法を選択できること」というのを物の本で読んだことがある。どちらが正しいという話ではなくそちらの方が範囲が広い。
その意味ではパチンコには「台選び」というゲーム性があると言える。ただそれも「複数の台からより当たりやすい台を選ぶことが可能である」ことを前提としている。
ネットでパチンコ用語を調べると、様々な専門用語が出てきて、しかもそのほとんどが内容が空虚なジャーゴンに近いものに見える。要するに「この予兆が出るとあたりが出やすいor出にくい」ということを手を変え品を変え述べているようにしか見えない。その予兆もパチンコメーカーが任意に設定した不確かなもの。
にも関わらずパチンコについて語る人の語り口はなにか自信に満ち溢れている、ように見える。この辺についての分析をすることも可能なのではないかと思う。自分の手には余るけれど。
話を戻すと、パチンコにゲーム性があるとしたら台選び、なのだけれどそれも台選びが可能であるという前提ありきのもの。
ゲーム性を最もラディカルに定義するなら「ボタンを押すと反応すること」であり、これは評論家の「さやわか」氏が提唱していたハズ。
さすがにこの定義に従えばパチンコにはゲーム性がある、と言えそうだが、ここにも疑義が挟める。
パチンコを反応させるのはボタンではなく、お金であるという点。
ただそれを言い出すとアーケードゲームも「お金を入れて反応させている」ことになる。
確かにパチンコのボタンやハンドルは(多分)「遊戯を進行させる」という機能しか持っていないが、テレビゲームにもそのような例はある。完全に運ゲーの「マインドシーカー(ファミコン)」とか。
なのでマインドシーカーにゲーム性があると定義するなら、パチンコにもゲーム性があることになる。


書き始める前は別にパチンコのゲーム性について考えるつもりはなかった。ただ流れでそうなっただけで。
ともあれグラブルには上記3つの定義のいずれにおいても「ゲーム性がある」と言える。パチンコに似ているのはランダムドロップ要素だけで。
またゲームについての学術的な本を読みたいなぁ。


ゲームをやるなら「正統性」のあるゲームをやりたい、という気持ちが自分の中にある。多分多くの人にもある。
ブランド力と言い換えても良い。由緒正しさ。安心感。
自分がグラブルをやっているのはそういう背景が確実にある。
サイゲームスの現状を考えればグラブルのサービスはおそらくあと3年は続く。干支が一周し十二神将が全て登場するまで。プログラム的な問題でサービス継続が困難になるなどしなければ。
なんだかわからないゲームをやる気はあまり起こらない。評価が高いゲームを遊びたい。
子供の頃であれば、遊べるゲームだったら何でも手を出しただろう。でも今は先のことや周囲の評価を気にしてしまう。
大人になったんだから、ゲームに限らずそのような考え方をしてしまうのは仕方のないことなんだろう。
問題は自分の中の「正統」なゲームが減ってきているように感じること。
長寿ゲームの続編には惰性を感じてしまう。新しいゲームは、なんだかよくわからない。
老化のせいと言われれば否定のしようがない。
ただゲーム業界の構造が変わってきているせいもあるかもしれない。
最近、グッと来るような大作やインディーズのゲームがPS4で出てきていない気がする。すぐに思いつくのがエルデンリングくらい。
Nintendo Switchは好調。任天堂のハードを持っていない。別に任天堂が嫌いな訳では無い。「プレステがあるんだから我慢しなさい!」というお母さん理論である。持ってたらなんだかんだ遊んでる。高性能のPCも持っていないし。
いや、どうしても遊びたいソフトがあったらさすがにSwitchくらいは買っている。それをしないということは自分の中でやりたいゲームが無いということ。
昔だったらモンハンのために買ってたと思うけど、とりあえずライズは見送ろうかなという気持ちになってしまった。
端的に言えば時代の流れに乗れていないだけであって、現状について文句を言うべき立場にはない。それはハッキリしておかねば。